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「狼妖団設定置き場その2」の過去ログ

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2019年05月18日 20時36分 ~ 2019年05月19日 20時47分 の過去ログ
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マックス仮に第110号艦(信濃)を大和型戦艦として完成させる場合、46cm主砲塔を細かく分解して特務艦「知床」(戦艦砲塔運搬可能)で輸送するか、第110号艦(信濃)を横須賀から呉に回航して主砲塔搭載工事を行わねばならなかった。   (2019/5/18 20:36:12)

白雪清水 鈴 人狼 モデル ペルソナのジョーカー 異能力を持っている。普段はごく普通の学生だが裏の顔は怪盗。コードネームはブラックエース。もといた世界では仲間といたけどはぐれてしまった。まぁいいやと思っている。   (2019/5/18 20:36:20)

マックスここに至り日本海軍は大和型戦艦・第110号艦を航空母艦へ設計変更し、1944年(昭和19年)12月末を目指し空母として就役させることを決定する。第110号艦は、タービン機械、ボイラー9基、艦前方の弾火薬庫の床の取り付けが完了し、船体中央は中甲板レベルの隔壁の組立中、艦尾は弾火薬庫の床が完成して、その上の構造物に取り掛かった状態であった。   (2019/5/18 20:36:41)

マックス 第110号艦の空母改装に当たっては「航空母艦艤装に関しては完成期を遅延せしめざる範囲に於いて、戦訓に基づく改善事項を実施し、また出来得る限り艤装簡単化に関し研究実行す」と軍令部・艦政本部の空母急速増産計画には記載されている。   (2019/5/18 20:37:18)

おしらせゆめみがちさんが入室しました♪  (2019/5/18 20:37:49)

マックス第110号艦の航空母艦への設計変更と改造にあたっては、艦政本部、軍令部(航空関係者)、航空本部員の間に、基本構想と意見の食い違いがあった。 艦政本部長の岩村清一中将より「本艦の空母としての性能は従来の空母を一変せしめ、洋上の移動航空基地たらしめる。すなわち原則として飛行機格納庫を備えず、従って固有の艦上攻撃機・艦上爆撃機を搭載しない。   (2019/5/18 20:37:52)

マックスこんばんは~   (2019/5/18 20:37:54)

白雪ばんはー   (2019/5/18 20:38:30)

ゆめみがちドルルルルル(空から降ってきた)こんばんは   (2019/5/18 20:38:32)

マックス本艦は最前線に進出し、後方の空母より発艦した飛行機は本艦に着艦し、燃料、弾薬、または魚雷を急速に補給して進発する。しかして巨大な飛行甲板に充分な甲鈑防御をほどこし、敵の空襲下にあくまで洋上の基地として任務を達成する。しかし自艦防衛上、直衛機(戦闘機)のみは搭載し、この分の格納庫だけは設ける」という案が示された。「戦艦としての防御力を持つ船体に重防御を施した飛行甲板を装備して不沈空母化し、格納庫も搭載機も持たない」との意見さえあったとする主張もある。   (2019/5/18 20:38:57)

マックス大鳳型航空母艦があくまで『既存の空母の弱点である飛行甲板の防御』という構想から建造されたのに対し、この初期案ではあくまで『洋上の航空基地』であることを第一として考えられている。また、ミッドウェー海戦での「航空母艦は被弾損傷に脆弱である」という戦訓から、爆弾や魚雷を装備した攻撃機や爆撃機を艦内に搭載しないという発想でもある。   (2019/5/18 20:39:21)

マックスしかしこの初期案は軍令部や航空本部側からの反発を招いた。神重徳(軍令部参謀)はアウトレンジ戦法に強く反対し、第110号艦を攻撃用空母とするよう強く主張している。結局、「万が一敵からの攻撃をある程度受けても戦艦構造や強固な飛行甲板によって継戦能力を失わない。仮に他の空母が攻撃を受けて航空機の母艦としての能力を失っても、それらの空母に所属していた航空機を受け入れることで、艦隊としての航空戦闘能力を保持し続け」、搭載・運用する直衛機に加えて攻撃用の航空機を搭載し、さらに他の空母の航空機用の燃料や爆弾、魚雷までも用意しておくという大鳳型の着想と似たものとなった。   (2019/5/18 20:40:01)

マックス全面的に変更された空母用の最終的な設計は、この構想を実現するために、装甲飛行甲板と航空機用格納庫に加えて、燃料庫や弾火薬庫が拡充されることになった。1942年(昭和17年)7月末、空母への設計変更が決定し、1ヶ月で基本計画完了、9月早々海軍大臣に報告がおこなわれた。艦政本部の基本設計が終わったのは11月、横須賀工廠で詳細設計を進め、工事再開は1943年初頭となった。   (2019/5/18 20:40:26)

マックスあかん信濃キツイ…((   (2019/5/18 20:40:37)

マックス第110号艦(信濃)の建造が再開されたのは1942年(昭和17年)9月、竣工は1945年(昭和20年)2月末の予定だった。ところが、日本海軍はガダルカナル島をめぐる戦いから多数の艦艇を喪失し、損失艦が続出した。 1943年(昭和18年)3月25日、嶋田繁太郎軍令部総長は各工廠に「損傷艦の修理を優先し、新造艦は松型駆逐艦及び潜水艦に限定せよ」と通達。同年8月、「第110号艦」の建造は再度中断されることとなる。   (2019/5/18 20:41:12)

白雪長くて目が負えませんまっくすん((   (2019/5/18 20:41:22)

ゆめみがち桃布(モモフ) 性別 女の子 年齢 14さい 種類 妖怪 ドーナツを愛するもの。(雑)不破とは何故か仲が良く、附野はドーナツがあまり好きではないらしいので敵。ドーナツ以下食べないド偏食ガール。((   (2019/5/18 20:41:58)

マックス同年8月、「第110号艦」の建造は再度中断されることとなる。その上、横須賀工廠は雲龍型航空母艦1番艦(雲龍)、阿賀野型軽巡洋艦2番艦(能代)、松型駆逐艦、丙型海防艦の建造や艤装工事、水上機母艦千代田を軽空母に改造する作業、空母翔鶴修理作業(南太平洋海戦で大破)、空母飛鷹修理作業(昭和18年6月、潜水艦雷撃で大破)、軽巡洋艦「大淀」や重巡「摩耶」等各種艦艇の修理整備作業を抱えており、工員4,000人を増員しても手一杯であった。不思議なことに、竣工時期は1945年(昭和20年)1月と1ヶ月以上早められている。   (2019/5/18 20:41:58)

マックスでも見たことある名前あるでしょう?((   (2019/5/18 20:42:07)

マックス1943年(昭和18年)6月24日、昭和天皇は横須賀沖に停泊中の大和型戦艦2番艦「武蔵」(連合艦隊旗艦)に行幸する。これに先立ち、高松宮宣仁親王(天皇弟宮、海軍大佐)が110号艦を視察している。   (2019/5/18 20:42:28)

ゆめみがち(あっどうしよ私誤字ってるやん……まぁいいかばれへんばれへん)   (2019/5/18 20:43:07)

白雪あるけど読むと頭がぶっ壊れるからやめてる   (2019/5/18 20:43:10)

マックス1944年(昭和19年)6月19日から20日にかけて発生したマリアナ沖海戦において、日本海軍は大敗北を喫した。主力空母3隻(翔鶴、大鳳、飛鷹)を一挙に失ったのである。特に第110号艦(信濃)の原型となった大鳳喪失は関係者に衝撃を与えた。その後、進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦(信濃)が必要との意見があがった。 7月1日附達212号をもって第110号艦は“軍艦 信濃”と命名され、航空母艦として登録される(以後、110号艦は信濃と表記)。同時に「1944年(昭和19年)10月15日までに竣工させよ」との命令が下る。   (2019/5/18 20:43:29)

マックスこっちが死んじゃう!((   (2019/5/18 20:43:36)

マックス偏食キャラ来たこれ((   (2019/5/18 20:43:59)

白雪Re:EGSのメインstやりてぇ   (2019/5/18 20:45:04)

マックスまた「一度戦闘に参加し得るに必要なる設備のみ取りあえず完成せしめ、その他は帰港の上工事」と定められた。   (2019/5/18 20:45:19)

マックス建造予定が遅れているにもかかわらず、大鳳喪失を補うためにも初期の竣工時期より5ヶ月近く短縮された。熟練工を兵役で取られ、その不足を補うために民間造船所の工員や海軍工機学校の生徒のみならず、畑違いともいえる他の学部の生徒を学徒勤労報国隊で集め、朝鮮人工員や台湾人工員、女子挺身隊も狩り出された。   (2019/5/18 20:45:54)

ゆめみがち偏食はいいぞ(布教し隊)   (2019/5/18 20:45:58)

ゆめみがちRe:EGSメインstあてくしもやりとうございますわよ(??)   (2019/5/18 20:46:41)

マックス「110号(信濃)の完成が日本を救うこととなる」「信濃がなければ、戦争に負ける」等の決意が作業を促進したという指摘もある。 だが大和型戦艦2番艦武蔵で19ヶ月かかった艤装を3ヶ月で強行した仕上がりには問題があった。海軍省関係の性能審議委員会の参加者であった牧野茂 (海軍技術大佐、大和型戦艦設計者)は、信濃/第110号艦の居住区には調度品が一切なく殺風景で、気密試験は続行中、まるで「鉄の棺桶」だったと述べている。   (2019/5/18 20:46:42)

マックス偏食…(そうえば赤城さん…)(((   (2019/5/18 20:46:59)

白雪おうじゃあやるか((   (2019/5/18 20:47:10)

マックス信濃は過労や事故により10名以上の死者を出しながら軍艦として形を整えた。軍需省航空兵器総局総務局長大西瀧治郎中将は、110号艦(信濃)を油槽船に改造し、スマトラ島(インドネシア)より燃料を運ぶ計画を立てていた。 8月15日、日本海軍は阿部俊雄大佐(軽巡洋艦大淀艦長)を、信濃艤装委員長に任命する。 8月17日、横須賀海軍工廠に信濃艤装員事務所を設置。 10月1日、阿部艤装員長は制式に信濃艦長となる。 同日附で第一航空戦隊(司令官古村啓蔵少将)が新設される。当事は雲龍型空母3隻(雲龍、天城、葛城)という戦力だった。   (2019/5/18 20:47:40)

マックス【悲報】まだ半分もいってない   (2019/5/18 20:47:55)

白雪先にイッテクルゼ…   (2019/5/18 20:48:15)

おしらせ白雪さんが退室しました。  (2019/5/18 20:48:29)

マックス10月5日、信濃艤装員事務所を撤去。 同日午前8時から8時30分頃、ドックに注水を開始。予定では、ドックに半注水し艦を浮揚、その段階で艦のバランス等を確認・調整することなっていた。その作業中、注水予定10mのところ推定8mまで達したところで突然ドックの扉船が外れ、外洋の海水が流れ込んだ。この海水の奔流に乗って艦体は前後に動きだし、艦を固定する100本以上のワイヤーロープと50本の麻ロープが切れた。これにより甲板上にいた技術士官等が海上に放り出されると同時に、艦首のバルバス・バウがドックの壁面に何度も繰り返し激突する事態が生じ、バルバス・バウと内部の水中ソナー、プロペラ翼端が破損した。   (2019/5/18 20:48:37)

ゆめみがちやりますねぇ!!! ワカタゼェ…   (2019/5/18 20:48:40)

おしらせゆめみがちさんが退室しました。  (2019/5/18 20:48:46)

マックスおかしくなりそうだよパトラッシュ…((   (2019/5/18 20:48:50)

マックス終わったら行きますね~   (2019/5/18 20:48:59)

マックス調査の結果、単純なミスが発覚した。扉船内部のバラストタンクへおもりとして海水を注水しなければならない筈が、それを忘れるという人為的ミスであった。バラストタンクへも海水を入れなければならないのに、全く注水されていないという人為的ミスという異説もある。作業ミスではあるが、性急すぎる工期短縮が招いた結果ともいえる。10月6日命名式の予定は延期(軍艦籍登録のみ10月6日附)。 10月8日に命名式は行われ、昭和天皇の代理として米内光政海軍大臣が式場に臨席した。皇族の派遣はなかった。命名式では阿部艦長が「未完成の空母・信濃」と発言しようとしたという。ここに「信濃」は正式に横須賀鎮守府籍と定められた。起工以来約4年5ヶ月が経過していた。   (2019/5/18 20:50:02)

マックスその後は再びドックに戻され、第111号艦の資材を一部使用して修理が行われた。修理は10月23日に終わり、ドックを出て沖合いに繋留された。だが竣工は1ヶ月遅れた11月19日となる。その間、日本海軍最後の大規模艦隊戦であるレイテ沖海戦(捷一号作戦)が起こり、連合艦隊は壊滅状態となる。 しかし仮にレイテ沖海戦に参戦できていても、本艦に乗せる航空機はすでになかった。実際、健在だった第四航空戦隊(龍鳳、隼鷹)は搭載機がなく、海戦に投入されなかった。横須賀で建造された空母雲龍も同様であり、特攻兵器「桜花」の輸送船として使用され、潜水艦の雷撃で沈没した。第111号艦の資材を流用して航空戦艦に改造された戦艦2隻(伊勢、日向)も搭載する航空機がなく、通常の戦艦としてレイテ沖海戦に参加した。   (2019/5/18 20:50:48)

マックス同年11月、信濃は航空公試で各種艦載機の離着艦実験を行った。戦況の悪化から東京湾外での実験は危険として湾内で実施、横浜本牧沖から千葉市の沖に向かい、その間に着艦実験をすることになったが、信濃が速いのですぐに千葉沖に達してしまい、何回も往復することになった。11月11日には零戦や天山艦上攻撃機などの在来機、11月12日には横須賀航空隊により局地戦闘機・紫電改を艦上型に改造した「試製紫電改二(N1K3-A)」や流星、彩雲等による発着艦実験が実施され、いずれも成功を収めている。ただし監督していた川西航空機の菊原静男技師は、信濃乗組員の技量や動作に不安の念を覚えている。これが本艦で航空機が発着艦を行った唯一の事例であった。11月15日、志賀淑雄少佐は信濃飛行長に任命される。   (2019/5/18 20:51:52)

マックス呉回航の会敵前   (2019/5/18 20:52:12)

マックス1944年(昭和19年)11月19日、公試運転を経て性能審議委員会の承認をうけ、海軍に引き渡される。第一航空戦隊に編入。この時点で、同隊は空母6隻(雲龍、葛城、隼鷹、天城、信濃、龍鳳)となった。 11月24日、連合艦隊司令長官豊田副武大将はGF電令550号にて「『信濃』及び第十七駆逐隊は、『信濃』艦長之を指揮し横須賀発、機宜、内海西部に回航すべし」と命じた。残された艤装や兵装搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるための呉海軍工廠回航を意味していた。これは横須賀海軍工廠の上空をB-29爆撃機が飛行しており、近日中に空襲があることが予測されていたことも関係している。アメリカ軍が撮影した航空写真にも「信濃」の姿が映っていた。ただし、アメリカ軍は大和推測データや武蔵沈没情報は持っていても、本艦について把握していなかった。   (2019/5/18 20:53:01)

マックス本艦の呉回航を後押しした原因はもう一つ存在した。徴用工の多用による横須賀工廠の技術力を懸念した日本海軍は、呉海軍工廠で艤装工事を行うことを検討していたのである。海軍の打診に対し大和型戦艦の造船主任である西島亮二海軍技術大佐は「信濃の残工事(艤装工事)は引き受ける」と意欲的だったため、海軍は呉回航を決定したという。のちに西島大佐は自らの発言を後悔することになった。この時点に於いて信濃内部では建造工事が続けられており、高角砲、噴射砲、機銃はほとんど搭載されていなかった。機関も12基ある缶(ボイラー)の内8基しか完成しておらず、最大発揮速力も20-21ノット程度という状態であった。便乗した工員数は、信濃通信長によれば約1000名である。   (2019/5/18 20:53:46)

マックス呉海軍工廠へ回航に際して航空機は搭載されず、信濃飛行長志賀淑雄少佐も横須賀で待機することになった。信濃甲板士官の沢本倫生によれば、艦上爆撃機(機種不明)を3機搭載しており、呉で最後の艤装を終えた後は、桜花を台湾へ輸送する予定だったという。この他に、特攻機の桜花を50機、貨物として搭載していたという説や、海洋特攻兵器震洋数隻を搭載したという説もある。これについて「信濃の出撃が特攻にならなければいいが」という冗談があったとする作家の主張もある。   (2019/5/18 20:54:24)

マックス信濃を護衛する駆逐艦は第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦3隻(浜風〔司令駆逐艦〕、磯風、雪風)だったが、既に海軍艦艇の水中捜索能力よりアメリカ軍潜水艦の静寂能力が上回る状態であった。また、レイテ沖海戦以来まとまった上陸や休養もなく、艦乗員の疲労や練度不足により、見張りも完全とはいえなかった。艦自体も、2隻(磯風、浜風)はレイテ沖海戦の損傷で水中探査機が使えず、特に「浜風」はレイテ沖海戦で被弾し28ノット以上を出せない状態だった。さらに第17駆逐隊は、捷一号作戦から日本への帰投時に護衛していた戦艦「金剛」および同駆逐隊司令駆逐艦「浦風」を米潜水艦シーライオン(USS Sealion,SS-315)の雷撃で沈められ、第17駆逐隊司令谷井保大佐も浦風轟沈時に戦死、駆逐隊も司令不在という状況だった[。   (2019/5/18 20:55:11)

マックス11月25日午後2時過ぎ、第17駆逐隊(浜風、雪風、磯風)は戦艦「長門」(レイテ沖海戦で損傷中)を護衛して横須賀に到着、信濃乗組員は飛行甲板に出て長門隊を出迎えた。 この後の信濃側と第17駆逐隊の打ち合わせでは、航路を巡って議論となった。第17駆逐隊側は潜水艦の待ち伏せを警戒して日本軍哨戒機の応援を受けられる昼間接岸移動を主張したが、信濃艦長阿部俊雄大佐は夜間の21ノット航行で米潜水艦を回避できると提案を却下している。これは軍令部から対潜哨戒機を出せないという通達があり、信濃自身も1機の航空機も搭載していないという事情もあった。   (2019/5/18 20:55:56)

マックスまた阿部は潜水艦の脅威よりも、日本近海で活動中のアメリカ軍機動部隊に襲撃されることを恐れたという見解もある。当時信濃主計長であった鳴戸少佐の回想によると、信濃の航路を決定する会議の中、夜間・外洋航海ルートを取る策に対して信濃航海長兼任の中村副長、護衛の駆逐艦長たちは口々に異を唱え、特に雪風の寺内艦長が最も強硬に反対したという。   (2019/5/18 20:56:20)

マックス議論の結果、信濃部隊は夜明け前に出航外洋航海の進路を取った。万一アメリカ軍潜水艦が出現しても、満月に近い月のため発見しやすい事を考慮していた。 大井篤(海上護衛総司令部参謀)によれば、信濃出港直前に連合艦隊(慶応大学日吉校舎地下壕)から海上護衛総司令部(海軍大学校校舎在)に電話連絡があり、海上護衛隊にも一応の協力を求めたが、洋上沖合では海上護衛部隊でも協力できず、大井は沿岸ルートもしくは昼間航行をするよう勧めたが、覆らなかったという。   (2019/5/18 20:57:11)

マックス戦闘   (2019/5/18 20:57:38)

マックス11月28日午後1時30分、信濃隊は横須賀を出港した。艦隊の配置は、先頭は第17駆逐隊司令駆逐艦「浜風」、中央に「信濃」、信濃右舷に「雪風」、左舷に「磯風」。あるいは先頭磯風、右浜風、左雪風であった。「長門」では乗組員が甲板に整列し帽子をふって見送り、信濃側もそれに応えた。   (2019/5/18 20:58:12)

マックス4隻(信濃、浜風、雪風、磯風)は金田湾で時間調整したのち、午後6時30分に外洋へ出た。信濃艦内では機械室やガソリンタンク周辺で工事が続けられており、機関未完成のため最大発揮速力は20ノット前後であった。 同日午後7時、「磯風」は米潜水艦の電波をとらえ、警戒を強める。同様に信濃側も探知し、阿部(信濃艦長)は乗組員に警戒するよう通達を出した。   (2019/5/18 20:58:44)

マックス午後9時頃、電波探知機(逆探)で右後方に追尾する船舶を発見し、阿部(信濃艦長)は信濃右舷にいた駆逐艦に偵察を命じた。調査に向かった駆逐艦は「味方識別に応ぜざるも、乾舷高く、漁船と思われる」と報告、沢本(海軍中尉、信濃甲板士官)は「怪しい影」は「アーチャーフィッシュ」ではなかったかと回想している。戦後、沢本と同様の見解を持つ作家もおり、作家の豊田穣は、戦後、アーチャーフィッシュの艦長ジョセフ・F・エンライト少佐に詳しく取材したことを根拠にしている。   (2019/5/18 20:59:28)

マックス一方、エンライト艦長の著書では、この時アーチャーフィッシュは信濃の進路後方ではなく前方を占位していたと証言している。それによれば、アーチャフィッシュは接近してくる「信濃」を右舷艦首方向に発見、更に信濃艦首側、アーチャーフィッシュにより近い側に護衛艦一隻を確認した。エンライト艦長は追跡班に「前方より追跡を開始せよ」と命じてアーチャーフィッシュを転舵させると、アーチャーフィッシュの艦尾方向に「信濃」を確認し、同一進路を前進しながら監視を続けたとある。アーチャーフィッシュは信濃右舷側を進む駆逐艦が直衛を離れ調査に向かってくるのも、識別信号を発信するのも確認していないという。   (2019/5/18 21:00:20)

マックス午後10時、艦隊の先頭にいた「浜風」は前方6,000mに並走するマスト2本の水上目標を発見する。同艦は増速すると距離3,000mまで接近して照準を定めたが、「信濃」は「引き返せ」と命じた。これは「護衛艦は敵潜水艦を深追いして直衛に隙間をあけない」という事前の取り決めによるものだった。   (2019/5/18 21:00:46)

マックス午後10時45分、「信濃」は右舷前方に浮上した米潜水艦を発見し、誰何信号を送った。アーチャーフッシュも信濃マストに10秒-20秒-10秒という赤色発光信号を確認し、護衛駆逐艦の攻撃を予想して不安に感じている。浜風・雪風は砲撃態勢をとったが、阿部(信濃艦長)は所在の暴露を恐れて発砲を認めていない。この頃信濃艦内では、乗組員に汁粉(ぜんざい)が配られていた。   (2019/5/18 21:01:27)

マックス上甲板、艦中央部にあった通信室では、通信科の下士官兵達がオーストラリア・メルボルンから発信される対日プロパガンダ放送(日本語)を聴いて楽しんでいたとする作家の主張もある。   (2019/5/18 21:01:49)

マックス11月29日午前0時30分、遠州灘に差しかかった頃、艦隊はペリスコープらしきものを備えた影を発見し、この時、「雪風」は最も近くにいた「浜風」が影を確認しにいったと思ったが、浜風艦長・磯風艦長は「雪風」に影を確認してもらう事に決め、その旨を「磯風」より通信したが、雪風側は受信していない。この混乱について、第17駆逐隊司令と司令艦「浦風」を台湾沖で喪失した影響であり、正式な司令が着任していれば防げられたという意見もある。この影は信濃側でも同艦見張員が発見していたが、多数が望遠鏡を見た結果、雲であると判断しそのまま南進を続けた。   (2019/5/18 21:02:19)

マックス信濃通信長の荒木勲中佐は、右舷に敵潜水艦らしきものを発見して左斉動(南方へ転針)を行い、その後も対潜水艦回避行動を行ったと回想している[162]。信濃艦長伝令の梅田耕一水兵長(航海科信号員)の記録によれば、「11月29日午前2時45分、右30度距離7000に敵潜水艦らしきもの発見、右舷駆逐艦(磯風)と交信、3時5分に敵潜を見失う」とあり、アーチャーフィッシュ側も「0305、100度に変針、潜航。潜望鏡の空母、距離6400m、護衛艦は点滅発光信号受信のため空母に接近」と記録している。   (2019/5/18 21:02:36)

マックス日本本土、静岡県浜名湖南100マイルで待機していたアメリカ海軍のバラオ級潜水艦のアーチャーフィッシュ(USS Archerfish, SS-311)は不時着B-29救援任務を切り上げ、商船を襲うべく東京湾へむかった。 11月28日午後8時30分、レーダーの修理が完了。午後8時48分、アーチャーフィッシュの艦長ジョセフ・F・エンライト少佐は、「島が動いている」というレーダー士官の報告を元に「信濃」を発見した。発見当初、アーチャーフィッシュでは信濃甲板上に飛行機の姿を確認できなかったことなどから艦種を特定しかねており、タンカーだと考えていた。   (2019/5/18 21:03:10)

マックスしかし非常に大型の船であったことから、攻撃のために追尾することを決める(同艦は護衛駆逐艦を4隻と記録)。アーチャーフィッシュは浮上すると、最大全速19ノットで追跡を開始した。浮上航走のうち、アーチャーフィッシュは目標が飛鷹型航空母艦(米軍呼称ハヤタカ)や大鳳型航空母艦とは異なる新型大型空母であることを確信する。これは信濃艦首の形状を観察し、大鳳型にはない開放格納庫を確認したためである。午後10時45分、アーチャーフィッシュは彼らに向けて1隻の駆逐艦が距離3,000mまで突進してくるのを発見し、潜航退避する寸前まで追い詰められた。   (2019/5/18 21:03:59)

マックスだが信濃マストに赤色信号が見えると駆逐艦は引き返し、アーチャーフィッシュは難を逃れた。アーチャーフィッシュのエンライト艦長の手記では「磯風」としているが、前述のように「浜風」の可能性が高い。午後11時30分、エンライト艦長は目標を捕捉できない可能性を考慮し、友軍潜水艦の応援を暗に求め、最高司令部宛に以下の無電を発信する。   (2019/5/18 21:04:38)

マックス「アーチャーフィッシュより太平洋艦隊総司令部、太平洋方面潜水艦隊司令部ならびに日本領海のすべての潜水艦宛。我れ大型空母を追跡中、護衛駆逐艦3隻あり、位置北緯32度30分、東経137度45分、速力20ノット」。信濃に傍受される危険をおかした無線(実際に傍受された)に対するアメリカ潜水艦隊司令部の返電は「追跡を続けよ、ジョー、成功を祈る」。ニミッツ提督司令部からは「相手は大物だ。君のバナナは今ピアノの上にある。逃がすな」だった。   (2019/5/18 21:05:14)

マックスエンライト艦長が期待していた増援の潜水艦は手配されず、結局アーチャーフィッシュは単艦での4隻(信濃、浜風、雪風、磯風)の追跡を続行した。11月29日午前2時40分には「目標の左舷8マイルにして追跡中、魚雷発射の射点に占位し得るや疑問なり」と発信した。信濃側は全速の20ノットで航行しており、浮上最大発揮速力19ノットのアーチャーフィッシュは追いつけない筈だったが、「相手のジグザグ運動のために、きわめてゆっくりと追い越すことができる」という状態になった。さらに日付変更直前、信濃機関部で右舷の中間軸受けが過熱。速力を18ノットに落としていたという。アーチャーフィッシュも信濃速力低下を確認していた。   (2019/5/18 21:05:52)

マックス「アーチャーフィッシュ」襲撃時点の日本軍護衛陣形には諸説あり、「先頭に雪風、中央に信濃、右に浜風、左に磯風」という浜風水雷長説や、「磯風が先頭、右に浜風、左に雪風」という雪風砲術長説、「浜風が先頭、右に雪風、左に磯風」という雪風水雷長説がある。この混乱は之字運動をする関係で時刻によって駆逐艦の位置が常に変化しているためであり、外洋ではおおむね17駆司令駆逐艦「浜風」が先頭を航行していたという。   (2019/5/18 21:06:24)

マックス11月29日午前3時13分、浜名湖南方176kmにてアーチャーフィッシュは魚雷6本を発射した。日本側はアーチャーフィッシュの存在には気付いており、午前3時5分には「信濃」が第17駆逐隊に潜水艦警報を発し[230]、第17駆逐隊も潜水艦と思われる電波を傍受したが、位置の特定はできていなかった。   (2019/5/18 21:06:47)

マックス潜航状態(潜望鏡発射)、1,400ヤード(約1,280m)の距離から発射された魚雷は、調停深度水面下10フィート(約3m)で6本。3本ずつ角度をずらせる150%射法にて発射された。これは最初の3本の破孔に次の魚雷が飛び込むことを期待したと、アーチャーフィッシュのエンライト艦長は手記に記載している。また魚雷は重量物が水線よりも上に集中している不安定な空母を転覆させるために、命中深度を通常より浅く設定して発射された。   (2019/5/18 21:07:58)

マックス午前3時16-17分、魚雷4本が信濃右舷に命中。生存者の証言では2本、アーチャーフィッシュは6本命中を主張。命中深度を浅く設定された魚雷は、信濃右舷後部のコンクリートが充填されたバルジより浅い部分に命中し、ガソリン貯蔵用空タンク、右舷外側機械室付近、3番罐室即時満水、亀裂で隣の1番罐室・7番罐室に浸水、空気圧縮機室が被害を受けた。最初の報告では、後部冷却機室、機関科兵員室、注排水指揮所近辺、第一発電機室などに浸水、右舷6度傾斜というものである。   (2019/5/18 21:08:39)

マックス第三海上護衛隊司令部で被害無線を傍受。命中後、一時13度傾斜したが、左舷注水により右傾斜9度に回復した。「信濃」は速力を落とさず、傾斜しながら20ノットで現場から退避したため、アーチャーフィッシュは北西に向かう「信濃」を追撃することは出来なかった。随伴駆逐艦から爆雷も投下されたが、アーチャーフィッシュは約15分間、爆発14回を記録し、脅威にはならなかった。「信濃」は3時30分に信号で被雷したことを告げた。3時45分、アーチャーフィッシュは巨大な爆発音が20分続くのを聴音し、沈没する大型艦艇の爆発だと判断した。6時14分に潜望鏡をあげ、洋上に何もない事を確認。それから4時間後、謎の大爆発音を聴音した。   (2019/5/18 21:10:22)

マックス沈没、経過   (2019/5/18 21:10:33)

マックス書類上、「信濃」は軍艦籍に入って完成艦として扱われているが、実際は建造中の未完成艦だった。通路にはケーブル類が多数放置されており、防水ハッチを閉められなかった。防水ハッチを閉める訓練すら、軍令部が工期を急がせたため行ったことがなかった。かろうじて閉めることが出来た防水ハッチも、隙間から空気が漏れている。さらに大和型戦艦の艦内は迷路同然で、慣熟するのに1年では無理とされる。乗艦して数ヶ月程度の者では、自分の現在位置すら把握できない。それでも、応急員達は注排水指揮所からの指令によって反対側への注水作業を実行した。少なくとも3,000tの注水実行が報告され、傾斜は若干回復した。   (2019/5/18 21:11:21)

マックスしかし、注水開閉弁が故障してそれ以上の注水が不可能となる。 ただちに潮岬方面に向かったが、浸水は止まらず、次第に傾斜が増大して速力も低下する。沢本中尉によれば、13度に傾斜した時点で主ボイラーを止めてしまったため電気や蒸気が使えなくなり、やむを得ず手動ポンプで排水作業を実施した。戦闘詳報では「午前5時30分、速力11ノット」と記録している。機関科兵の回想では午前5時ごろに右舷タービンが停止。午前5-6時、復水器が使用できなくなりボイラー給水用の真水が欠乏したため、午前8時前には洋上で完全に停止するに至った。   (2019/5/18 21:12:25)

マックス海上護衛総司令部では信濃被雷を受けて大阪警備府や各地港湾部に曳船の手配をはじめたが、関西地方から信濃被雷地点まで180海里(約330km)もあり、すぐに到着できる状況ではなかった。「信濃」は随伴2隻(雪風、浜風)に対し「傾斜のため運転不能」と発信、曳航を命じた。海水を使用してボイラーを炊くことも検討されたが、一度海水を使うと補修に多大な手間がかかることより見送られた。艦前部にある予備真水タンクはパイプが切断されており、役にたたなかった。阿部艦長は工廠関係者を飛行甲板にあげるよう命じたが、「工廠関係者飛行甲板」(「工廠の工員、上甲板」とも)の命令が伝令により「総員飛行甲板(総員上甲板)」となり、艦内は混乱した。   (2019/5/18 21:13:25)

マックス一方、この命令誤認のため艦底にいた応急作業員や機関科兵が脱出できたという一面もある。機関科分隊長の三浦治は、機関科への退避命令は、左舷罐室への注水と傾斜復元も意図していたとみられると語っている。   (2019/5/18 21:14:00)

マックス午前7時45分、信濃は駆逐艦2隻(磯風、浜風)に曳航のため接近せよとの手旗信号をおくった。浜風(司令駆逐艦)は2隻(浜風、磯風)で曳航すると通信。阿部(信濃艦長)自ら信濃の艦首で作業を監督したが、駆逐艦2隻では浸水して沈下した巨艦を曳航することができずワイヤが切れてしまった。そこで駆逐艦の後部高角砲塔にワイヤをグルグル巻きにして再度曳航を試みたが、またもワイヤが加重に耐えれず切断してしまい、曳航は断念されるに至った。第17駆逐隊戦闘詳報によれば、磯風と浜風が曳航索を渡したが千切れてしまったという。   (2019/5/18 21:14:43)

マックス一方、雪風下士官の豊田義雄(内務・運用)によれば、この記述は全くのフィクションであり、浜風、磯風が信濃の両舷に接舷しこれを支え、雪風が一隻で曳航すると言う無謀な作戦であり、曳航策を受け渡しする前に作業は放棄されたという(ただし豊田はどの指揮系統の命令であったか、また命令の詳細についても明確な記憶はないという)。午前8時の時点で上甲板が水で洗われており、乗組員は格納庫甲板の排水に駆りだされた。午前8時30分、注排水指揮所が水没し、稲田文雄大尉ら9名が水死した。   (2019/5/18 21:15:23)

マックス注排水指揮所の全滅と曳航作業が失敗した事で、喪失は確定した。9時32分、御真影(昭和天皇の写真)をカッターに移し、まだロープで結ばれていた「浜風」に移そうとしたが、悪天候のためカッターは信濃右舷バルジに乗り上げて転覆した。 10時25分、傾斜35度に達し、軍艦旗降下。10時27分、総員退去用意。10時37分、総員退去令。この時の艦長命令は「各自自由に行動せよ」だったという幹部士官の証言がある。荒木勲(信濃通信長)や安間孝正(信濃軍医長)によれば、阿部(信濃艦長)は退艦命令を出すことを逡巡しており、横手克己(信濃砲術長)が「艦長! 総員退艦はまだですか」と進言したため、阿部艦長は退艦を発令したという。10時57分(55分説あり)、潮岬沖南東48kmの地点で転覆、艦尾から沈没した。   (2019/5/18 21:16:45)

マックス「信濃」の艦歴は、世界の海軍史上最も短いものとなった。竣工から10日、出港してからはわずか17時間であった。被雷時点での戦死者数名・負傷者同程度だったにもかかわらず、総員退去の命令が艦内放送装置が使えず巨大な艦内に伝わらなかったり、エレベーター穴や艦体と飛行甲板の隙間に落ちたり、低温の海での漂流と強い波浪により、多数の乗組員が行方不明となった。沈没する艦体に多数の兵がしがみついていたのも目撃されている。阿部(信濃艦長)は艦首で総員退去命令を出したあと、「信濃」と運命を共にした。   (2019/5/18 21:17:52)

マックス一方、爆薬や燃料を搭載していない特攻兵器"桜花"が海面に浮かび、多くの乗組員が掴っている光景が救助作業中の「浜風」から目撃された。戦後、武田が桜花開発者の1人に会って桜花が人命救助に役立ったことを話すと、技術者は複雑な表情を浮かべたという。   (2019/5/18 21:18:23)

マックス生存者は準士官以上55名、下士官兵993名、工員32名。戦死者は「信濃会」の調査によると791名(工員28名、軍属11名を含む)。これには建造中の110号艦(信濃)から逃亡したのち行方不明となった脱走兵2名も含まれている。信濃御真影は浜風(駆逐艦長前川万衛中佐、海兵52期)に奉安された。対空ロケット砲装備のため呉で待機していた技術者達は、入港した第17駆逐隊から「信濃」の沈没を知らされ、海軍の終焉を実感している。   (2019/5/18 21:19:05)

マックス沈没点は北緯33度06分、東経136度46分とされる。現場の深度は6,000 - 7,000mと深い。「信濃」の探索は実施されておらず、正確な沈没位置は確定されていない。嶋田繁太郎海軍大臣より信濃沈没の報告を受けた昭和天皇は「惜しいことをした」と述べたという。   (2019/5/18 21:19:51)

マックス1945年(昭和20年)4月7日、坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」と第二水雷戦隊の5隻(矢矧、磯風、浜風、霞、朝霜)が沈没、駆逐艦「涼月」も大破、帝国海軍が決行した最後の大型水上艦による攻撃となった。それにともない、沈没した2隻(大和、信濃)および空母「葛城」(健在)は第一航空戦隊から除かれる事になる。4月20日、第二艦隊および第一航空戦隊は解隊された。 8月31日、戦艦4隻(山城、武藏、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された。   (2019/5/18 21:20:26)

マックスよし半分っ!   (2019/5/18 21:20:41)

マックス~原因~   (2019/5/18 21:20:56)

マックス建造の練度不足のため十分な防水作業も出来ず、艦搭乗員も内部に精通したものが皆無だった。配属されてから長い者で数ヶ月という状態では、被弾後に対しても突然の事態に混乱し、右往左往するばかりで、満足に応急処置すら実行できない状況であった。空母翔鶴運用長として珊瑚海海戦や南太平洋海戦で同艦の応急措置に奔走した福地周夫大佐(信濃砲術長横手克己大佐とは、海軍兵学校第52期の同期生)は、翔鶴処女航海(竣工昭和16年8月8日、初航海8月23日)と信濃処女航海を対比。   (2019/5/18 21:21:31)

マックス竣工直後の同艦でも乗員の訓練は不充分で、防水扉の閉鎖方法すらわからず、仮に魚雷が命中していれば「当時の翔鶴なら沈んだだろう」と評している。大和内務科士官として艦内防御を担当した士官も、竣工時の大和艦底マンホールには不具合点が約500ヶ所(ボルトやパッキン不備、脱落、緊締不良、ボルト穴開け違い等)があり、時間をかけて順次改善していったと回想。信濃沈没について、艦底マンホールに多数の欠陥があったと推定している。また傾斜によって左舷の注排水弁が海中から上がってしまい、追加の注水が出来なかったという推論もなされている。   (2019/5/18 21:22:09)

マックスこれには反対意見もある。その注排水についても、出港前に傾斜復元テストは行われず、また電源がどの程度の震動で故障するかも不明だった。実際に排水ポンプは故障で作動しなくなっている。突貫工事による影響で、ねじ山が根元まで切られていないボルトや2cmも隙間の空く防水ハッチ、右舷艦尾に命中した魚雷の衝撃で艦首部分の甲板リベットから浸水する、さらに隔壁の気密検査が未実施など、竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に魚雷命中の時点で沈没が確定されていたといってよい惨状だった。エンライト艦長の判断(魚雷の深度を約3メートルと浅くし、水線近くを浸水させることで重心点の高い空母の転覆を狙った)が適確で、信濃側の不具合に乗じる結果となった。   (2019/5/18 21:23:07)

マックス呉工廠造船部長として大和型戦艦1番艦「大和」の進水・艤装時を監督した庭田尚三(海軍技術中将)は、横須賀海軍工廠が気水密試験を省略したことについて「かような試験は手を抜こうと思えばできないことではないが、当事者として見れば責任上良心的にどうしてもそのような無責任な気持ちにはならないものだ」「このような地味な縁の下の力持ちのような試験作業は実に困難であっても、完璧を期さなくては現場技術者としての資格はないと私は信ずるのであります」と回想している。「大和」も1942年(昭和17年)6月15日竣工を予定していたが、艦政本部からの要請で竣工を1941年(昭和16年)12月16日に早めた経緯がある。   (2019/5/18 21:23:44)

マックス牧野茂(大和型戦艦設計者)の話によると、「大和型戦艦は1本目の魚雷命中で戦列を離れず、2本目でも戦闘力を持続し、3本目では沈没することなく基地に帰投可能」という方針で浸水計算がなされており、4本目については十分な検討がなされていなかったと述べている。乗組員の訓練不足と慣熟不足、未完成艦だったことを考慮しつつ、牧野によれば「信濃の沈没責任全てが防水工事の不備にもとづくものであると断定するには忍びない」としている。   (2019/5/18 21:24:18)

マックス雪風下士官の豊田義雄は、護衛駆逐艦側の問題として、第17駆逐隊司令駆逐艦(浦風)の沈没と駆逐隊司令の戦死により指揮系統が混乱しており、各艦や「信濃」との連携が十分ではなかったという。海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐は「火の用心はあまりしないで、消防士が悪いから丸焼けにされたとうらみを言っているように聞こえて仕様がなかった。根本的には航海計画が悪かったのだ。それは敵の潜水艦およびその魚雷の威力をあなどったことからきていたのだ」と述べている。他にも敵潜出没海面に3隻の駆逐艦の護衛をつけただけの夜間航海計画を立案した軍令部の責任が大きいという指摘もある。   (2019/5/18 21:24:49)

マックス12月28日、東京で三川軍一中将のもと信濃の沈没原因を調査するための「S事件調査委員会」が開かれた。「信濃」は事故ではなく敵の攻撃を受けて沈没したため、建前上は査問ではなく調査の形がとられたが、委員会に出席した信濃の生存者は彼らを詰問する軍令部や工廠関係者に対し「脆い艦を作った造船関係、気密試験も省略させて出港させた軍令部、駆逐艦3隻だけの護衛で出港させた上層部」に対する怒りを抑えられなかったという。会議の結果、責任を問われる当事者が多すぎたため、表立った処分を受けた者は誰もいなかった。S事件の報告は「工廠工事の粗漏、水密試不施行等及艦乗員の復元に対する不徹底等」だったという。   (2019/5/18 21:25:32)

マックスアーチャーフィッシュの乗員は、非常に大きな空母を攻撃したことは認識していたが、撃沈の確信を持つことは出来なかった。またアメリカ軍はB-29からの偵察写真に「信濃」が写っていたが本艦の存在を把握しておらず、アーチャーフィッシュの報告も半信半疑の扱いであった。上官コーバス中佐は日本の暗号解読で判明した「信濃」という艦名から、信濃川の名をつけた巡洋艦改造空母を撃沈したと判断し、それで満足しろとエンライト艦長を説得している。エンライト艦長は「信濃」のスケッチを提出し、2万8000トン(2万9000トンとも)空母撃沈認定をもらった。当時世界最大の空母を撃沈したと乗組員達が知るのは、戦後のことである。信濃撃沈の功績に対して、殊勲部隊章がアーチャーフィッシュに与えられた。 またGHQはNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で「信濃」沈没について報道した。「信濃」は潜水艦に撃沈された最も巨大な船である。   (2019/5/18 21:26:36)

マックス戦後の1978年(昭和53年)5月17日、輸送艦あつみ艦上に於いて、信濃の現地洋上慰霊祭が生存者32名・遺族89名が参列していとなまれた。   (2019/5/18 21:27:58)

マックス    (2019/5/18 21:28:01)

マックス終わりました。中々悲しいですね…   (2019/5/18 21:28:18)

おしらせマックスさんが退室しました。  (2019/5/18 21:28:20)

おしらせマックスさんが入室しました♪  (2019/5/19 08:04:49)

マックス常昭丸 男 170cm 初代龍驤。イギリス生まれ日本育ちで、明治新政府軍所属であった。二代目龍驤とはうってかわって冷静。酒好き。明治新政府の方に就いていたこともあり、最新物によくこだわる。和歌や詩を詠むのも楽しみの一つで、ただ新しいことに目がないわけではなさそうだ。過去に様々な戦いに参加していたこともあり、戦歴をもつ。   (2019/5/19 08:09:27)

マックス慶応元年(1865年)、熊本藩藩主の命によりイギリス・アバディーン造船所へ注文。元治元年(1864年)1月に進水。明治2年(1869年)7月24日あるいは明治3年(1870年)に竣工した。一方、イギリス側の記録によると、トーマス・グラバーの発注によりアバディーンのアレクサンダー・ホール&カンパニーにてJHO SHO MARU(じょうしょうまる、漢字表記は一説によると「常昭丸」)の名で建造され、1869年3月27日(旧暦2月15日)に進水、8月11日(旧暦7月4日)に竣工したとされる。   (2019/5/19 08:10:39)

マックス明治3年(1870年)3月3日に長崎に回航され熊本藩が購入、「龍驤(りょうしょう)」と命名、後に呼称は「りゅうじょう」と変化した。4月12日に明治政府に献納され5月8日に品川沖で領収、あるいは翌年の明治4年(1871年)5月に献上され、兵部省所管となった。明治5年(1872年)の海軍省発足によりそのまま海軍艦艇となった。   (2019/5/19 08:11:21)

マックス明治3年(1870年)には横浜港にてイギリス海軍の士官を招き、各艦から選抜された砲手の砲撃訓練を行った。明治4年(1871年)から翌年に明治天皇が、横須賀や品川沖などで海軍天覧した際や、明治5年(1872年)の瀬戸内海行幸など、何度か御召艦となった。   (2019/5/19 08:12:00)

マックス1874年(明治7年)の佐賀の乱、台湾出兵に参加。特に台湾出兵では清国との交渉に派遣された大久保利通参議の乗艦となった。1877年(明治10年)に行われた明治天皇の京都・大和行幸では先導供奉艦を務めたが、その際に西南戦争が起こったため清輝などと共に700名の巡査隊を鹿児島へ派遣、攻略に参加した。同年10月26日には暴風のため鹿児島で座州、翌年に離州し1879年(明治12年)まで横須賀造船所で修理を行った。   (2019/5/19 08:13:01)

マックス少尉候補生を乗せた遠洋練習航海には3回従事した。1881年(明治14年)度では海軍兵学校8期35名を乗せて2月2日に品川を出航、シドニー、メルボルン、タスマニアを経て7月28日横浜に帰着した。カロリン諸島のクサイ島に寄港した際、酋長は「我らは日本人の子孫である」として歓迎したという。 1883年(明治16年)度では10期27名を乗せて前年の12月27日に品川を出航、ウェリントン、バルパライソ、カヤオ、ホノルルを経て9月15日品川に帰着した。このときは初めての南米への遠洋航海であったが、乗員の多くが脚気となり、その後の糧食改善のきっかけとなった。3回目は1887年(明治20年)度で13期37名を乗せて2月1日に品川を出航、シンガポール、バタビア、アデレード、メルボルン、シドニー、オークランドを経て9月11日品川に帰着した。またこの間1885年(明治18年)の甲申政変では朝鮮方面に出勤した。   (2019/5/19 08:13:50)

マックス1888年(明治21年)9月18日に機関が撤去され、係留されたまま砲術練習艦として使用された。1893年(明治26年)12月2日除籍。その後も横須賀の砲術練習所(海軍砲術学校の前身)で使用された。1896年(明治29年)4月1日雑役船に編入、1908年(明治41年)に売却された。   (2019/5/19 08:14:40)

おしらせマックスさんが退室しました。  (2019/5/19 08:14:52)

おしらせマックスさんが入室しました♪  (2019/5/19 08:26:09)

マックス久須見 男 167cm 間宮、伊良湖の弟になるはずだった未成艦。伊良湖や間宮のように独立した軍艦ではなく、政府が隠蔽する機密情報。伊良湖の弟である自覚がなく、そもそも記憶が薄い。まぁ未成艦やし…。軍艦として建造されるところまでは覚えているが、その後は解体されたため記憶が半分無い状態。なにも知らない故か、初めて見るものにはオーバーリアクション。   (2019/5/19 08:33:52)

マックス    (2019/5/19 08:34:07)

マックス千代田形 女 165cm 初代千代田。姉妹艦はいない。様々な有力者が集い知恵をふり絞り建造されたのが千代田形。千代田“形”は無くてもいいらしい。国内戦争に従事していたことがあるため、策略家。だがよく横から撃たれてしまうのが悩み。一騎討ちが好き。   (2019/5/19 08:38:18)

マックス    (2019/5/19 08:40:12)

マックス蟠竜丸 男 177cm 正直初めて見たとき何故か独眼竜の人を思い浮かべてしまいました。(( 英語混じりの日本語をよく話す。一応“江戸幕府”側の軍艦です。英語混じりなのはイギリス生まれだから。ノリは軽くちゃらちゃらしてる感じだが、冷静沈着で頭がキレやすい。ただ猪突猛進な面もあって少々お騒がせ。ずんだを愛してやまない。というか甘党。奇襲は柄ではないと嫌がっている。   (2019/5/19 08:44:49)

マックス    (2019/5/19 08:44:59)

マックスあ、補足忘れてた((   (2019/5/19 08:46:16)

マックス安政5年(1858年)7月4日、日英修好通商条約に調印するために来日した英国使節エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースにより、ヴィクトリア女王の名において将軍に寄贈された。バランスのとれた美しい姿で、進水当時アメリカの新聞にイラスト入りで紹介されている。小型でスマートな快速遊覧船ながら構造が頑丈で、幕府はこの船を砲艦として使うべく幕府海軍に組み入れた。   (2019/5/19 08:46:54)

マックス本来、ロイヤル・ヨット(王室の遊船)であるため内装は目を見張るほど絢爛豪華で、階段・手すりには彫刻が施され、壁一面を埋める鏡も設置されていた。鏡と気づかずぶつかった幕府役人もいたことが記録されているが、この鏡は箱館戦争の松前攻略の際、砲台からの砲撃で壊された。じゅうぶんな手入れができなかったために箱館戦争の頃には、内装外装ともに美観が損なわれていたという記録があるが、他の艦船がまだ稚拙な操艦によってしばしば座礁や接触などのトラブルを記録している中、蟠竜丸にはその類の記録はない。   (2019/5/19 08:47:12)

マックス慶応4年(1868年)4月11日の江戸城無血開城にあたって新政府軍への譲渡が約束されていたが、海軍副総裁・榎本武揚が天候不良などを理由にこれを延期した上、最終的には拒否。徳川慶喜を駿府に移送する際の乗艦として使用したのち、8月19日深夜(20日)には松岡磐吉を艦長として開陽丸・回天丸・神速丸・咸臨丸などとともに幕府海軍が投錨していた品川沖を脱出した。その際台風に巻き込まれて沈没寸前になったが、1ヶ月をかけて榎本海軍と合流を果たし、蝦夷地に渡り、箱館戦争においては榎本(箱館政府)海軍の主力艦となった。   (2019/5/19 08:47:49)

マックス寄贈した英国が「Emperor(寄贈当時、日本のトップは帝ではなく将軍であると認識されていたので、将軍を指す)」と命名していることからわかるように、将軍用遊覧ヨットとしての寄贈だったと思われるが、世情がそれを許さず軍艦に組み入れられ、実際に将軍(大政奉還後ではあるが)が初座乗したのが駿府へ移送される時だったというのは皮肉である。   (2019/5/19 08:48:03)

マックス一連の箱館戦争では、敵味方双方の文書に松岡艦長の操艦の巧みさと冷静な指揮ぶりが記録されている。艦砲射撃で松前城攻めなどを援護したのち、明治2年(1869年)3月25日の宮古湾海戦では、暴風雨に遭い、僚艦とはぐれた時に落ち合う約束だった鮫港(八戸)で待機したため参戦には至らなかった。この暴風雨の際も「艦長松岡磐吉は操船の名手で、ロープ1本損なわれなかった」と、乗っていた林董が書き残している。この帰路、新政府軍の甲鉄艦の追撃を受け、速力差(機関力の差)で逃げ切れないと観念し、一艦で接舷攻撃を挑もうと戦闘準備をするが、甲鉄艦の射程に入ったあたりで絶好の順風が吹き始め、帆走で追撃を振り切って箱館に戻った。   (2019/5/19 08:49:39)

マックス同年5月11日の箱館総攻撃(箱館湾海戦)では弁天台場や、機関故障のため走れず浮き砲台となった回天丸に援護されながら、一艦で新政府軍艦隊に応戦。新政府軍艦朝陽丸の火薬庫に炸裂弾を命中させ、朝陽丸は大爆発を起こして2分で轟沈。旧幕府軍の士気を一気に向上させた。その後蟠竜丸は新政府軍の集中砲火を浴びた。これに応戦し続けたが、午後になり弾薬が完全に尽きたためやむなく退艦を決め、弁天台場下まで退いて浅瀬に乗り上げさせた。乗組員は機関を破壊後(艦長松岡磐吉が「のちに用いることもあろう」と放火を禁じたため、自焼はしていない)、弁天台場付近へ上陸、敵中を横断して台場に入った。同日、新政府軍の手で蟠竜丸は放火されたが、火災は帆柱を炎上させるのみで船体には殆ど引火せずそのうち帆柱が折れ、バランスを崩して横転し、鎮火した。   (2019/5/19 08:49:56)

マックスその後、イギリス人により船体が引き揚げられ、上海で修理される。この際、帆柱の数が3本から2本に変わり、甲板上に大きな船室が作られるなど船体上部がほぼ新造される大規模な改修を受け、姿は大きく変わって往年の優美さは失われた。明治6年(1873年)に開拓使が購入し、「雷電丸」と名を改める。明治10年(1877年)、日本海軍の軍艦となって「雷電(艦)」と改名し、横須賀に配備された。澤太郎左衛門の息子澤鑑之丞も練習艦として乗り組み、一度石垣に衝突したが、石垣が壊れて艦は無事だったと、その堅牢さを語っている。明治27年(1894年)発行の大日本帝国軍艦帖によると、この時の要目は、排水量370トン、垂線間長41.472m、幅6.960m、吃水2.896mであったという。   (2019/5/19 08:50:16)

マックス明治21年(1888年)1月28日に廃艦となり、高知県に無償で払い下げされて捕鯨船となる。その後さらに愛知の汽船会社に買い取られて商船となり、明治30年(1897年)、大阪の木津川造船所で解体された。解体時、木村芥舟がその木片を貰い受け、「蟠龍」と書いて飾った。   (2019/5/19 08:51:00)

マックス    (2019/5/19 08:51:21)

マックス朝陽丸 男 175cm 名前とは裏腹に、陰に潜む忍。ほんわかしてて不思議なオーラを持つ人。蟠竜丸を雷電と呼んでいる。かつての主力仲間だったこともあり仲がいい。江戸幕府側の軍艦。若い者には負けじと日々鍛練。どっかの音速の忍じゃないですよ。((強い相手と戦ってみたい。サボり常習犯。   (2019/5/19 08:57:04)

マックス嘉永6年(1853年)のペリー来航、翌年の日米和親条約締結と、アメリカの砲艦外交に慌てた幕府首脳部は、早急に蒸気軍艦を持つ必要を痛感した。そこで、長いつきあいのあるオランダに相談を持ちかけ、軍艦購入と、その軍艦の乗組員を養成するための長崎海軍伝習所設立が決まったのである。注文されたのはコルベット2隻で、1隻100,000ドルだった。ともに キンデルダイク(Kinderdijk)造船所で建造され、先にヤッパン号(咸臨丸)が出来上がって回航された。それから一年足らず、安政5年(1858年)、エド号(朝陽丸)が長崎に着いた。咸臨丸を回航して来日し、そのまま第2次伝習教師を務めていたカッテンディーケは、次のように記している。   (2019/5/19 08:57:19)

マックス「10月9日、我々は長い間待ちわびた暗輪スクネール船エド(のち朝陽丸)、また1ヶ月後にはナガサキ(のち電流丸)の長崎入港を見た。この美しい立派な二船は、さきの咸臨丸とともに、日本政府のために、オランダにおいて建造せられたものである。右のうちエド号のほうは、将軍家のために、また長崎号のほうは肥前侯のために造られた」(水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』p133)   (2019/5/19 08:57:42)

マックスさらにカッテンディーケによれば、この2隻を回航してきた船長は、どちらも若妻をともなっていて、帰りの便船を待つ間長崎に住んだので、見慣れないその衣装が大評判になったという。 1ヶ月あまり後、カッテンディーケはこのエド号で、筑前福岡を訪れる。しばらくの間、エド号、つまり朝陽は長崎に留まったが、翌年早々、伝習生だった勝海舟などを乗せ、江戸へ向かった。   (2019/5/19 08:57:53)

マックス初期幕府海軍の主力艦   (2019/5/19 08:58:04)

マックス当時、築地軍艦操練所において、幕府が所有していた蒸気軍艦は、蟠竜丸と咸臨丸、そしてこの朝陽丸だった。   (2019/5/19 08:58:15)

マックス文久元年(1861年)、イギリスの長崎領事モリソンが、攘夷派浪士に襲われた第1次東禅寺事件のときには、矢田堀鴻を艦長として長崎へ連絡航海をした。その翌年からは、同じく矢田堀を艦長として、小笠原諸島開拓のための往還や漂着外国船の救助、京阪への幕府要人送迎、将軍護衛などに活躍する。文久3年(1863年)には長州藩の外国船砲撃について使節団を現地へ輸送したが、長州藩兵の攻撃を受けて一時占拠される事態となった(朝陽丸事件)。   (2019/5/19 08:58:37)

マックス軍事的な出動としては、元治元年(1864年)、天狗党の乱における那珂湊出陣があげられるが、以降、軍艦としての活動にはめざましいものがない。一応諸資料では、砲12門、コルベットとなってはいるが、砲艦といった方がいい大きさで、あるいは12門の砲も威力のあるものではなかったのかもしれない。新たに幕府が所有した冨士山丸や回天丸、そして開陽丸に活躍の場を譲った。   (2019/5/19 08:58:53)

マックス箱館湾海戦   (2019/5/19 08:59:02)

マックス慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発して江戸幕府が瓦解すると、朝陽丸は明治政府の手に渡った。肥前出身で、かつて長崎でオランダ海軍の伝習を受けた中牟田倉之助が艦長となり、旧幕府軍を追撃して蝦夷地へ向けて北上したのである。 皮肉なことに、明治2年(1869年)の箱館戦争で、朝暘丸は活躍する。松前攻撃では、陸上攻撃で170発の砲弾を放ったといい、松前城の櫓にも命中させた。   (2019/5/19 08:59:15)

マックスさらに箱館湾海戦では、4月26日、回天丸の40斤砲に砲弾を命中させるなど、連日活躍を見せた。しかし5月11日の箱館総攻撃において、かつては僚艦だった旧幕府軍艦蟠竜丸の最後の奮闘により、砲撃が朝陽丸の火薬庫に命中し、大爆発を起こして轟沈。中牟田倉之助は重傷を負いながらも一命を取り留めたが、副艦長夏秋又之助はじめ乗組員の80名が戦死した。海中に投げ出され、救助された乗組員のうち、さらに6名が死亡した。   (2019/5/19 08:59:39)

マックスこの戦いを己巳役(きしのえき)と称し、箱館戦争終結後の間もなく、朝陽丸乗組員戦死者を弔う己巳役海軍戦死碑が函館山に建立された。   (2019/5/19 08:59:53)

マックス    (2019/5/19 08:59:55)

マックス回天丸 男 166cm 一見すると一般ピーポーだが、実は江戸幕府の軍艦の一人。蟠竜丸とは様々な戦いで知り合った同僚仲間。常に低姿勢なため油断も隙もないが、食べ物の魔改造がすごい。どっかのイタリア人が青ざめるレベルで。(( 平和主義者で、戦いは好きじゃない。   (2019/5/19 09:04:01)

マックス建造。元は、安政2年(1855年)建造のプロシア(後のドイツ)の軍艦ダンツィヒ(Danzig)号である。プロシア海軍創設期において建造された木造外輪式蒸気コルベットだった。設計および蒸気機関の製造はイギリスに依頼されたが、プロシアのダンツィヒ造船所で最初に建造された軍艦である。それまでプロシアでは、商船しか造ったことがなかったので、優秀な商船職工を集め、国内産の最上のオーク材を使って、船体を造ったという。   (2019/5/19 09:04:41)

マックス改装。当時の木造軍艦の寿命はおよそ8年で、文久2年(1863年)ころには軍籍をはずれ、武器がはずされた。これには、ちょうど蒸気軍艦が、外輪式から内輪式(スクリュー)へと移行した時期だったことも関係すると考えられる。つまり外輪式は旧式になりつつあり、プロシア海軍の主力艦としてはふさわしくない、とされたようである。 公売された結果、イギリス商人が手に入れ、ロンドンにおいて修理。新たに武装が施され、大砲は左右にイギリス製の40斤ライフル砲を5門ずつ、銅製の榴弾砲を2門、前面に50斤ライフル砲1門を備えた。また船首を飾っていたダンチヒ市(現在はポーランド領グダニスク)の象徴である女神像は鷲に変えられ、イーグル号と名付けられた。   (2019/5/19 09:05:09)

マックス外輪式は内輪式にくらべて、馬力のわりに速力が出ない。そのため(当初からか改装時かは不明であるが)、コルベットとしては小型の船体に400馬力という強力なエンジンを積んでいたものと考えられる。   (2019/5/19 09:05:18)

マックス日本回航とその後。慶応元年(1865年)、アメリカの会社の手に渡り、長崎に回航された。同年、長崎奉行の服部筑前守常純が186,000ドルで購入。当初は、乗組員も長崎奉行の手で決められ、艦長は支配組頭の柴誠一、乗り組み士官も多くが長崎の地役人だった。 第二次長州征討がはじまったため、幕府海軍所属となったが、艦長をはじめ、乗組員はそのままだった。慶応2年(1866年)7月に小倉へ回航され、小倉口の戦いに参加。長州藩の砲台等と交戦したが特に損害はなかった。8月には幕府海軍の撤退により長崎を経て江戸に向かい、その後天保山沖警備に従事。故障修理の後、幕府重役の上洛などに使用された。   (2019/5/19 09:05:43)

マックス慶応3年(1867年)の暮れ、江戸薩摩藩邸の不穏な動きが高まり、幕府は攻撃を決意した。それにともなって、回天丸は品川沖で警戒をしていたが、薩摩の武装運搬船翔凰丸が、藩邸から逃れた藩士、浪士などを収容し、逃れようとするのを追いかけた。折悪しく、柴艦長は命令授与のため上陸していたが、小舟で自船を追いかけ、最初の攻撃は副艦長が仕掛けた。横須賀沖において、翔凰丸の前にまわった回天丸は、砲撃によって命中弾をだし、翔凰丸に損傷を与えたが、反撃を受け、取り逃がした。ようやく自船に追いついた柴は、そのまま下田まで追跡したが、逃げ切られた。   (2019/5/19 09:06:01)

マックス戊辰戦争。戊辰戦争の初期には、開陽丸を旗艦として大阪、兵庫の間にあり、薩摩藩の蒸気船春日丸を追跡したりした。 慶応4年(1868年)4月11日江戸城無血開城と共に、幕府海軍が所有していた軍艦は、新政府軍に譲渡される予定であったが、海軍副総裁榎本武揚がこれを拒否。交渉の結果、甲賀源吾が艦長を務めることとなった回天丸を含め、開陽丸、蟠竜丸、千代田形丸の軍艦4隻が、徳川家に残されることになった。この4隻の軍艦を中心とする榎本艦隊は、徳川家の駿府入りを見届けた後、開陽丸を旗艦として、彰義隊残党や遊撃隊など、旧幕府陸軍を輸送船に乗せ、同年8月19日に品川沖を発して仙台をめざした。艦隊は台風による暴風に襲われ、大きな被害を受ける。回天丸は前部と中央のマストを折り、後部マストのみになった。無事仙台松島湾に入港の後も、本格的な修理をする暇がなく、前部に短いマストを立てたのみで、帆を用いることはしなくなったため、一見、鋼鉄のモニター艦のように見えたという。   (2019/5/19 09:06:22)

マックス甲賀艦長のもと、気仙港では旧幕府の帆船千秋丸を捕獲。蝦夷地へ渡ったのちも、箱館港占領、陸戦の支援など、箱館戦争では主力となって活躍し、開陽丸座礁の後は旗艦となった。   (2019/5/19 09:06:34)

マックス宮古湾海戦。もっとも知られている回天丸の活躍は、宮古湾海戦(甲鉄艦奪取作戦)である。結果的に、たった一艦で敢行することとなったこの戦いで、甲賀源吾が戦死し、総司令官として乗船していた荒井郁之助が自ら舵を握って新政府軍艦隊を振り切った。明治2年(1869年)3月26日に回天丸は蟠竜丸と共に箱館に帰還。その翌日には新たな艦長を定め、新政府軍の襲来に備えた。 4月、新政府軍は乙部に上陸を開始し、回天は木古内沖で新政府軍艦隊と接触したり、当別(現・北斗市)沖で春日丸と砲火をまじえたりしたが、本格的な海戦には至らなかった。   (2019/5/19 09:07:21)

マックス箱館湾海戦。回天丸は旗艦として箱館湾海戦に臨むこととなったが、度重なる海戦の結果、僚艦千代田形丸の捕獲、蟠竜丸の故障により、5月7日には孤軍奮闘を強いられた。甲鉄艦の砲撃によりついに機関を損傷、船としての機能を果たせなくなりながら、陸地近くへ寄せてなおも奮戦。動けないでいた蟠竜丸や台場からの砲撃にも助けられ、その日は新政府軍側艦船を退かせた。 4月24日の海戦当初から、回天丸が被った弾丸は80発を超え、修理することもできないので、浅瀬に乗り上げ、片舷に砲を集めて、浮砲台として利用される事となった。   (2019/5/19 09:07:50)

マックス5月11日の箱館総攻撃において、故障が直り一艦のみで奮戦する蟠竜丸を弁天台場と共に援護していたが、箱館市中に新政府軍が進入。背後からの砲撃も受けて、荒井郁之助を筆頭とする乗組員は、回天丸を脱出して一本木へ上陸、五稜郭へ撤収した。その日、回天丸は新政府軍の手で焼かれた。放火され、煙突、外輪、後部の船体が残った状態の回天丸の写真が残っている。当時の箱館では、「千代田分捕られ蟠龍居ぢやる、鬼の回天骨ばかり」という唄が流行ったと伝えられている。   (2019/5/19 09:08:22)

マックス    (2019/5/19 09:08:36)

おしらせマックスさんが退室しました。  (2019/5/19 09:09:03)

おしらせマックスさんが入室しました♪  (2019/5/19 13:15:39)

マックス千早 男 156cm 秋津洲の弟。未成艦。計画のみで造られなかった過去を持つが、本人はあまり気にしていないようだ。西洋の文化に興味があり、オカルトに興味がある。秋津洲とは面識がないという変わった関係。   (2019/5/19 13:17:58)

マックス    (2019/5/19 13:18:08)

マックス桜花 男 166cm 全体的に桃色と黒色をトーンとした魔女を思い浮かべるような服装。いつも箒を持っている。かつて軍人であったことから様々な戦歴を上げている。子供であろうと容赦ないようだ。催眠術やらなんやらを使ってスパイを捕まえる仕事もしていた。   (2019/5/19 13:22:39)

マックス開発まで。桜花の着想は、航空偵察員大田正一海軍特務少尉が、日本陸軍が母機(爆撃機)から投下する遠隔操作・無線誘導・ロケット推進の対艦ミサイル(対艦誘導弾)である(イ号一型甲無線誘導弾・イ号一型乙無線誘導弾)を開発中との情報を得て、イ号一型甲製作担当の三菱名古屋発動機製作所から設計の概要を聞きだし、誘導装置の精度が悪く実用化にはほど遠いと知り、誘導装置を人間におきかえるのが一発必中を実現する早道だと確信して、大田が東大に足を運んだところから軌道に乗る。   (2019/5/19 13:23:46)

マックスしかしながら、三菱開発のイ号一型甲はジャイロ安定装置と遠隔操作用無線機器の不具合により計画破棄されたものの、並行して開発が進められていた川崎開発のイ号一型乙は結果的に実用化の域に達しており、空襲の影響から実戦投入は出来なかったものの終戦までに150機が量産されていた。またさらに陸軍では対艦誘導爆弾として、赤外線自動追尾式のケ号自動吸着弾(ケ号爆弾)や、音響自動追尾式のイ号一型丙自動追尾誘導弾も並行して開発を行っている。当然ながら、陸軍が組織的に開発していたこれら四種の対艦兵器は機械を誘導装置とする先進的な無人誘導兵器であり、人間を誘導装置とする海軍の有人対艦兵器たる桜花とは全く異なる物である。   (2019/5/19 13:24:04)

マックスこの大田の相談に乗ったのが東大航空研究所の小川太一郎教授だった[注釈 2]。実験に協力した谷一郎東大教授によれば「昭和十九年夏、東大航研で小川教授から新しい依頼があった。小川さんは広い見識と温かい包容によって声望が高く、外部から持ち込まれる相談の窓口の役割を余儀なくされていた。その僅か前に、大田正一海軍少尉が火薬ロケット推進の特攻機の着想を持参し、海軍上層部を動かすための基礎資料の作成を依頼していたのである。私に求められたのは、木村秀政助教授の描いた三面図を基に、風洞実験の助けを借りて、空気力学的特性を推定することであった。仕事自体はさほど困難ではないが、特攻機が母機を離れた後は、生還の可能性の全くないことを知って私はたじろいだ。」という。   (2019/5/19 13:24:22)

マックス1944年(昭和19年)5月第一〇八一海軍航空隊が開隊。直後に十一航艦司令部より大田が転勤してくる。大田は司令の菅原英雄中佐に対して桜花の構想を明かす。菅原司令は、任務外の新兵器開発に奔走する大田を黙認して、航空技術廠長和田操中将に電話で技術上の検討を依頼。5月、6月ごろ菅原の推薦によって、大田は和田に桜花を提案した。航空技術廠三木忠直技術少佐の戦後証言によれば、和田はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという。 もっとも、三木忠直技術少佐は戦中のインタビューでは、「ドイツのV一号に呼応してわがロケット兵器の研究もまた全力をあげて行われていた。しかしV一号の目標は地上の間であるが、わが目標は空母、戦艦、輸送船の海上の点である。目標に対して一発必中の成果を上げるためにはV一号のごとく無人機では到底不可能である。どうしても人力を借りねばならない。だが、人の力を借りれば必中と同時に必死である。ここに悩みがあった。この悩みを解決したのが大田正一中尉(当時少尉)である。   (2019/5/19 13:25:27)

マックス『V一号に人間が乗ってゆくことだ。まず自分が乗ってゆく』と、烈々の至情を吐露して肉弾ロケット機『神雷』(桜花)を各方面に説き回った。」と語っている。   (2019/5/19 13:25:42)

マックス和田から話を聞かされた三木忠直技術少佐、山名正夫技術中佐が研究に協力した。空技廠は、風洞実験装置が有り、民間飛行工場の指導も行い、出入りのある愛知航空機にも桜花研究の協力を要請している。   (2019/5/19 13:26:03)

マックス和田は航空本部二課長伊東祐満中佐へこれを進達した。和田から連絡を受けた伊東は説明を聞き、大田は「私が乗っていきます」と言った。伊東の感想は「これは部外で相当に研究されたものらしい」というものだった。また、伊東は「私は、大田氏が操縦者であるなしを質さなかった。大田氏自身が操縦者であり、己が真っ先に乗る立場に立ちうる者でなくして、必死兵器を進言できるはずがないと思い込んでいたからである。誠に迂濶千万であった。私は操縦者の意思の代表として、彼の発案の実現促進に努力する腹を決めた」という。   (2019/5/19 13:26:49)

マックス1944年6月20日前後、筑波海軍航空隊で、司令中野忠二郎大佐が海兵出身の戦闘機教官7、8名を士官室に集めて戦局の悪化を明らかにし、「一度出撃すれば生還し難いが、成功すれば戦艦でも空母でも撃沈確実の新兵器のことで生還可能性が絶無である以上、上官からの命令はできないので搭乗員の意見を聞くことになった」という趣旨の説明があり、志願者が2名以上あれば兵器として採用すると断って志願を募った。林富士夫中尉、牧幸男大尉らが志願している。   (2019/5/19 13:27:06)

マックスマリアナ沖海戦敗北後の1944年6月19日、341空司令岡村基春大佐は第二航空艦隊司令長官福留繁中将と参謀長杉本丑衛大佐に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長伊藤整一中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。   (2019/5/19 13:27:24)

マックスまた、6月27日岡村は252空司令舟木忠夫とともに軍需省航空兵器総局総務局長大西瀧治郎中将に対しても、航空特攻部隊の構想を話し、特攻に適した飛行機の開発を要望した。桑原虎雄中将によれば「大西君は岡村大佐らの建策を支持し、嶋田軍令部総長に、ぜひとも採用しなさいと進言しておった。が、軍令部はなかなか採用しなかった」という。   (2019/5/19 13:27:49)

マックス8月初旬、大田は東京帝国大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所の協力で案をさらに練り改めて航空本部に提出する。私案には木村秀政東大講師による風洞実験用木型の設計図と谷一郎東大教授担当の風洞実験データがついていた。推進装置は三菱開発の呂号薬が採用されていた。その出来に伊東中佐も驚いたという。   (2019/5/19 13:28:08)

マックス伊東祐満中佐は航空本部一課長高橋千隼大佐の助言で、この案を軍令部作戦課航空部員源田実中佐のもとへ署名とともに持ち込んで採用を促した。署名とは、大田が1081空で下士官、兵のパイロット数十名を集めて「今の戦局を挽回するには一機で一艦を確実に葬るしかないと考え、それには母機から発進してロケット進推進で敵艦に体当たりする飛行爆弾のような有人の小型機しかないのではないかとの考えに至った。これを上申すべく東京に一番近い部隊に転勤を希望し、軍令部に日参しておったのである。軍令部ではそのようなものを作っても乗る搭乗員がいないと相手にしてもらえない。そこで賛成する搭乗員がいることを証明したいので、貴様たちの名前を貸してほしい」との趣旨の話を持ちかけ、質疑をする内に賛同者が徐々に増え、それを見た大田は取りまとめを堀江良二一飛曹に託したものである。   (2019/5/19 13:29:01)

マックス堀江によれば、偵察員だから搭乗することもないと軽い気持ちで最初に署名して回すと、みな快く署名し、中には血判を推すものまでいたという[27]。源田によれば「マリアナ沖海戦後、前線の若手士官、下士官から覚悟があるので体当たり機の使用を始めさせてほしいと上申があったが、軍令部は十分に効果がある爆弾の開発があるまで待ってほしいと押さえていた。桜花も同じ時期に軍令部への説得、働きかけがあった」という。本兵器の利点としては、炸薬量が多いのが魅力だったと戦後話している。1944年8月5日軍令部会議において源田は桜花案の報告を行い、軍令部二部長黒島亀人少将、軍令部総長及川古志郎大将がその研究試作を承認した。   (2019/5/19 13:30:11)

マックス戦歴がエグいので…(((   (2019/5/19 13:32:22)

マックス    (2019/5/19 13:32:23)

マックス翔凰丸 男 178cm どちらかというとやられていた方で、最終的に自焼した。礼儀正しく、生真面目。だが一度そう思い込むと中々引き剥がせない。怒るときはかなり怒る激情家。どこか残忍だがその結果追撃されたことを深く反省している。((   (2019/5/19 13:40:09)

マックス1964年(元治元年4月)に、薩摩藩が長崎で買い入れたイギリス汽船、ロチウス号が前身だという。 1868年1月19日(慶応3年12月25日)の江戸薩摩藩邸の焼討事件の際、相楽総三ら一部関係者の避難に用いられた。その際に旧幕府海軍の咸臨丸、回天丸の追撃を受け、伊豆子浦(現在の静岡県南伊豆町)、紀州九鬼(現在の三重県尾鷲市)での修繕を経て、兵庫港までの逃走には成功したものの、かなりの損傷を受けた。1868年1月28日(慶応4年(明治元年)1月4日)の阿波沖海戦で、僚艦の春日丸に曳航されながら開陽丸との交戦に巻き込まれ、撃沈などの危険があることから井島付近で自焼した。   (2019/5/19 13:41:39)

おしらせマックスさんが退室しました。  (2019/5/19 13:41:47)

おしらせマックスさんが入室しました♪  (2019/5/19 18:28:09)

マックスウッドワース 男 165cm 後にイタリアに渡ったこともあり、性格はイタリア人寄りになっている。あのラフィーの弟。嘘をよく吐くのを利用し人をからかい面白がっている。案外仲良くなれば、いいやつわけでもなく!((ただただからかわれるが、彼なりのスキンシップ。   (2019/5/19 18:30:24)

マックス   (2019/5/19 18:30:26)

マックスイタリアへ供与され、アルティリエーレ(Artigliere)と改名、1983年に標的艦として沈没。   (2019/5/19 18:30:46)

マックス   (2019/5/19 18:30:48)

マックスファーレンホルト 男 170cm 常にそっけない。かなりの神経質で警戒心が強い。聞き上手。嫌なことをされたらされたでめっちゃ怒るし倍にして返してくる。やってくるやつが悪いよね理論。((青いフラミンゴを見たことがある。   (2019/5/19 18:34:51)

マックス駆逐艦ファーレンホルトの名前は本艦で二代目。   (2019/5/19 18:35:42)

マックス   (2019/5/19 18:38:01)

マックスベイリー 男 167cm 二代目ベイリー。大の兎好きで、自分のペットである兎にもベイリーと名付けるほど。そして性格もどこか兎のようで、構ってやらないと死ぬらしい。(本人曰く。) 小悪魔でイタズラ好き。そのイタズラは度が過ぎるのが日常。(( 冗談と本音を混ぜて言うことがあるので紛らわしい。   (2019/5/19 18:44:19)

マックス   (2019/5/19 18:44:25)

マックスバンクロフト 男 165cm 二代目バンクロフト。優秀なラフィーや他に濃い兄達に囲まれている苦労性弟。彼ら兄弟たちの身の回りの世話はほとんどバンクロフトがしている。胃痛薬をわけてあげましょう。なお、会ったこともない比叡が大好きのようで、比叡と仲がいいラフィーに嫉妬している。会ったこともないのに何故比叡を知っているのか、武勇伝を聞いたことあるから。   (2019/5/19 18:52:24)

マックス   (2019/5/19 18:54:19)

マックスバートン 男 167cm 悪魔の【アイアンボトム・サウンド】をとても嫌う。ヘンダーソンとは戦争仲間で、“ガダルカナル島の戦い”でお互い知り合った。暁と霧島にも面識がある。この戦いから勲章を貰うが、本人は誇るべきことではないと、むしろ嫌悪している。   (2019/5/19 18:58:59)

マックスバートンは1941年5月20日にマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール、フォアリバー造船所で起工する。1942年1月31日にバーバラ・ディーン・バートン(バートン提督の孫娘)によって命名、進水し、1942年5月29日に艦長D・H・フォックス少佐の指揮下就役した。   (2019/5/19 18:59:20)

マックスバートンは1942年8月23日に東海岸を出航し太平洋に向かう。9月14日にトンガタプ島に到着し、10月5日にはブーゲンビル島への攻撃に参加、10月26日には南太平洋海戦に参加し、敵機7機を撃墜した。10月29日にはファブレ島沖で撃墜された輸送機の生存者17名を救助した。   (2019/5/19 18:59:32)

マックス11月12日、バートンは補給船団を護衛してガダルカナル島沖に到着。その頃、味方の偵察機が「スロット」と呼ばれた海域を南下してガダルカナル島に向かう日本艦隊を発見したため、第67.4任務群司令官ダニエル・J・キャラハン少将は、5隻の巡洋艦とバートンを含む7隻の駆逐艦に、日本艦隊を迎え撃つため集合するよう命令を出した。艦隊後衛の二番手に就いたバートンは、日没前からおそらく真夜中に最接近するであろう日本艦隊に備え、じっと待機していた。後世に「アイアンボトム・サウンド」と呼ばれるようになる海域は、時折降るスコールによって視界は狭まり、日本艦隊にとっても、そして第67.4任務群にとっても不利な材料となった。しかし、日付が11月13日に変わった直後の0時30分頃、第674.4任務群はレーダーによって阿部弘毅中将の日本艦隊を探知した。ヘンダーソン飛行場砲撃が主目的の阿部中将の艦隊は、戦艦比叡と霧島を主軸とし、他に1隻の巡洋艦と11隻の駆逐艦で構成されていた。サボ島の北西方からアイアンボトム・サウンドに入ってきた阿部中将の艦隊は、スコールによって第67.4任務群の動きをほとんど知ることがなかった。   (2019/5/19 18:59:55)

マックス1時30分頃、夕立と思しき駆逐艦がスコールから抜け出て、初めて両艦隊の視覚的接触があった。キャラハン少将は第67.4任務群を丁字戦法の陣形に持っていき、阿部中将の艦隊は第67.4任務群を突っ切る態勢になったが、最初の接触があってから約10分間は、第64.4任務群の前衛の駆逐艦が夕立を見て急旋回するなどの混乱があって、互いに砲撃をしてこなかった。バートンはあらかじめ砲と魚雷発射管を敵側に向け、後は攻撃命令を待つだけであった。1時48分、駆逐艦暁が軽巡洋艦アトランタ (USS Atlanta, CL-51) にサーチライトを照射し、これをきっかけに両艦隊の艦艇が入り乱れて第三次ソロモン海戦が始まった。   (2019/5/19 19:00:07)

マックスバートンとモンセン (USS Monssen, DD-436) は、乱戦を避けて戦うため、近在の日本の駆逐艦に対して砲撃を行いつつ日本艦隊の主力に北西方から迫ろうとした。しかし、バートンが比叡に対して4本の魚雷を発射しようとしたその時、軽巡洋艦ヘレナ (USS Helena, CL-50) がバートンの前方を横切った。また、アーロン・ワード (USS Aaron Ward, DD-483) に追突しそうになった。バートンは急停止の後、航行を再開しようと機関を始動させようとした。その瞬間、駆逐艦天津風から発射されたものと思われる2本の酸素魚雷がバートンに命中した。ボイラー室と前部機関室に命中して爆発し、数秒の内にバートンの船体は分断。士官13名、兵員151名と共に沈没した。42名の生存者が重巡洋艦ポートランド (USS Portland, CA-33) により救助され、26名がガダルカナル島からのヒギンズ・ボートにより救助された。   (2019/5/19 19:00:23)

マックスバートンは第二次世界大戦の戦功で4個の従軍星章を受章した。   (2019/5/19 19:00:36)

おしらせマックスさんが退室しました。  (2019/5/19 19:00:39)

おしらせマックスさんが入室しました♪  (2019/5/19 20:41:32)

マックス待って、ベンソン級キツイ(^p^)((確信   (2019/5/19 20:44:09)

マックスボイル 男 158cm 親切で心優しい。物静か。慣れるとよく喋る癖がある。能天気で案外ほんわかしている。正直戦うのは怖いと思っているため臆病。なんとか踏ん張ってる。   (2019/5/19 20:47:23)

2019年05月18日 20時36分 ~ 2019年05月19日 20時47分 の過去ログ
狼妖団設定置き場その2
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