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「狼妖団設定置き場3」の過去ログ

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2019年07月19日 14時14分 ~ 2019年07月31日 16時25分 の過去ログ
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おしらせ新規ルームを作成完了しました。(Android 211.1.***.163)  (2019/7/19 14:14:30)

おしらせ白雪さんが入室しました♪  (2019/7/19 14:14:50)

白雪新しく作ったどん   (2019/7/19 14:15:03)

白雪(^^ゞ   (2019/7/19 14:15:21)

おしらせ白雪さんが退室しました。  (2019/7/19 14:15:27)

おしらせマックス・シュルツさんが入室しました♪  (2019/7/20 20:31:28)

マックス・シュルツおぉ、新しい設定部屋出来てる。あ、私のせいか((   (2019/7/20 20:31:49)

マックス・シュルツ    (2019/7/20 20:32:05)

マックス・シュルツ河内 (戦艦) 男 174cm 生真面目で厳格。 無駄なものを嫌い、自ら「損得勘定で動く」人間であることを公言する。 自他共に対して厳しすぎるため、他人にどう優しくしていいか分からない。 真っ直ぐ向かってくる相手には真っ直ぐ応える男気を持っている。堅物だが、天然。過去に指導員をしていたがある意味スパルタだった。赤城丸に対してはライバル意識を燃やしている。そして同様に憎んですらいる。軍を裏切り、突然去ったことに納得していない。   (2019/7/20 20:40:40)

マックス・シュルツ    (2019/7/20 20:41:42)

マックス・シュルツ河内(かわち/かはち)は、日本海軍の戦艦。 艦名は、幕末期の汽船「河内丸」に続いて2代目で、 「河内国」に由来する。   (2019/7/20 20:41:45)

マックス・シュルツ河内型戦艦1番艦である。姉妹艦は「摂津」(旧字体では攝津)。 河内型戦艦は、日本海軍が最初に保有した弩級戦艦である。 長官公室には楠木正成(大楠公)の像が飾られていた[27]。 1918年(大正7年)7月12日、火薬庫爆発事故により爆沈した。   (2019/7/20 20:42:24)

マックス・シュルツ建造   (2019/7/20 20:43:03)

マックス・シュルツ日露戦争直後の明治40年度の計画により建造された戦艦2隻のうちの1隻。 計画時の名称は伊号戦艦(伊號戦艦)。 1909年(明治42年)2月12日、伊号戦艦を部内限りで河内と命名する。 4月1日、 横須賀海軍工廠にて午前8時20分に起工(キール据え付け)した。 9月2日、裕仁親王(のちの昭和天皇。当時8歳)、雍仁親王・宣仁親王が上村彦之丞横鎮長官等の案内で横須賀軍港を見学、建造中の河内を訪れた。 翌1910年(明治43年)10月15日、 午後2時8分に河内は進水した。 同日正式に河内と命名された。 進水式には明治天皇が臨席した。 1912年(明治45年)3月31日、河内は竣工、 海軍に引き渡された。 起工から竣工まで、約3年をかけたことになる。 河内建造の予算は明治44年度までで、竣工はその期限ぎりぎりだった。   (2019/7/20 20:44:14)

マックス・シュルツ明治45教育年度   (2019/7/20 20:44:34)

マックス・シュルツ竣工翌日の4月1日附で第一艦隊に編入、 整備や補給をした後の4月22日に作業地へ向け出港した。 5月24日、第一艦隊旗艦を香取から河内に変更。 同年(大正元年)11月10日、大正天皇皇太子(のち昭和天皇。当時11歳)が第一艦隊に行啓する。午前11時、皇太子は御召艦平戸から河内(第一艦隊旗艦、出羽重遠司令長官)に乗艦、第一艦隊赴任の挨拶をおこなう。皇太子は同年9月9日、皇族身位令第17条により近衛歩兵第1連隊附及び第一艦隊附の陸海軍少尉に任官していた。正午、皇太子は河内から平戸に戻った。 11月12日、横浜沖合で観艦式がおこなわれる。 観艦式終了後、河内には東伏見宮依仁親王が派遣された。   (2019/7/20 20:45:28)

マックス・シュルツ大正2教育年度   (2019/7/20 20:46:07)

マックス・シュルツ1913年(大正2年)2月4日、河内の後部砲塔上に(比叡用の)110cm探照灯を臨時装備し実用実験をするよう訓令が出され、 同年中はその実験を行った。 探照灯は11月27日撤去の訓令が出された。 2月10日河内(旗艦)、鞍馬、摂津、敷島、生駒、鹿島の6隻は打狗を出港し、 油頭、厦門に寄港し、 17日馬公に帰着。 21日河内(旗艦)、摂津、敷島、生駒、鹿島の5隻は馬公を出港し (鹿島は馬公に戻り、後に佐世保ヘ)、 4隻は舟山島に停泊し、 28日佐世保に帰着した。 4月11日河内(旗艦)、摂津、敷島、生駒の4隻は仁川を出港、 北清方面を航海し15日大連、 16日旅順に寄港、 19日旅順を出港し、 22日鎮海に帰着した。 7月14日、第一艦隊旗艦を敷島へ変更し、 22日河内に復帰。   (2019/7/20 20:47:45)

マックス・シュルツ10月11日、土崎港雄物川河口で上陸員を乗せた河内の第1カッターが転覆した。 天候に問題は無かったが、 後部から波を受け艇尾が持ち上がり舳先が左を向いた所に更に後方から波が寄せ、右舷に回転し転覆した。 河内の他のカッターや敷島のカッターなどで直ちに救助が行われたが、 乗艇54名中泳げない者を中心に7名死亡、1名行方不明(21日に死体発見)となった。 11月10日、横須賀沖の東京湾で恒例観艦式が行われた。 この観艦式は日本海軍初めての移動式観艦式で、 第一艦隊旗艦だった河内は艦隊の先頭で陣形運動の展示を行い、 受閲開場では第1列の1隻目の位置に停泊した。   (2019/7/20 20:48:39)

マックス・シュルツ大正3教育年度   (2019/7/20 20:48:49)

おしらせ夢見さんが入室しました♪  (2019/7/20 20:49:09)

マックス・シュルツ1913年12月1日、第一艦隊から除かれ、 旗艦は河内から金剛へ変更された。 河内は横須賀鎮守府艦隊に所属、1914年(大正3年)3月19日からは鎮守府艦隊旗艦となる予定だった。   (2019/7/20 20:49:12)

マックス・シュルツあ、こんばんは~   (2019/7/20 20:49:19)

マックス・シュルツ第一次世界大戦   (2019/7/20 20:49:28)

夢見こんばんは~!!*`∀´*))ノシ お久しぶりですね…!!´ω`))   (2019/7/20 20:49:57)

マックス・シュルツ8月10日、第一艦隊に編入された。 8月に日本がドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参戦すると河内も8月から9月にかけて東シナ海や黄海の警備に従事した。 8月29日河内は神通丸と佐世保を出港、 9月4日佐世保に帰着した。 9月12日河内は摂津(旗艦)、薩摩、安藝、巡洋艦、駆逐艦などの第一艦隊の艦と再び佐世保を出港、 18日佐世保に帰着した。   (2019/7/20 20:49:58)

マックス・シュルツお久しぶりです~   (2019/7/20 20:50:11)

マックス・シュルツ大正4教育年度   (2019/7/20 20:50:20)

マックス・シュルツ1915年(大正4年)9月、楠木正成(大楠公)座像と四条畷神社真景額寄贈の申し出があり、受理される。9月5日、大楠公像は横須賀停泊中の河内に安置された。 10月18日から11月1日まで第7回海軍大演習が行われ、河内の属する第一艦隊は青軍に参加した。 12月4日に横浜沖で特別観艦式が行われ、河内は第1列の3隻目に停泊した。   (2019/7/20 20:51:01)

マックス・シュルツ大正5教育年度   (2019/7/20 20:51:15)

マックス・シュルツ1915年12月16日、第一艦隊旗艦を摂津から河内に変更。 1916年(大正5年)2月22日、第一艦隊旗艦を河内から扶桑へ変更した。 10月25日に横浜沖の東京湾で(第2回)恒例観艦式が行われ、 河内は第一艦隊第一戦隊の4番艦として機動運動の後、 第1列の4隻目に停泊した。   (2019/7/20 20:51:46)

マックス・シュルツ大正6教育年度   (2019/7/20 20:52:15)

マックス・シュルツ1916年12月1日、第一艦隊第一戦隊から除かれた。 大正6年度は予備艦として横須賀軍港に在泊した。 1917年(大正6年)1月14日、横須賀軍港には河内以下日本海軍の艦艇多数(筑波、河内、生駒、榛名、金剛、津軽、山城等)が所在だった。 同日午後3時15分、横須賀停泊中の「筑波」は火薬庫爆発事故により爆沈。 河内・生駒・榛名・金剛等在泊各艦は救助作業に従事した。 1月17日、海軍砲術学校の教務のための砲塔使用が訓令され、 以降河内が予備艦の間は継続された。 大正6年度の恒例観艦式で河内が御召艦に予定された が、この年に観艦式は行われなかった。   (2019/7/20 20:53:13)

マックス・シュルツ大正7教育年度   (2019/7/20 20:53:30)

夢見擂兎(ライト) 男 妖怪 とにかくノリが良く明るい妖怪。実はホスト。よくホストの仕事を抜け出してそこら辺の人と友達になることが趣味な一歩間違えれば不審者な妖怪でもある。((キャラが掴みにくい))   (2019/7/20 20:53:31)

マックス・シュルツ1917年12月1日、第一艦隊第二戦隊に編入、第二戦隊は河内と摂津の2隻編制となった。 同日附で巡洋戦艦金剛副長等を歴任した正木義太大佐が河内艦長に任命される。 12月2日、第二戦隊旗艦を鹿島(第三艦隊第五戦隊へ転出済)から河内に変更。 当時の河内は第三予備艦から復帰したばかりで、寄せ集めの乗員の練度・素行共に問題があった。 1918年(大正7年)3月12日、第二戦隊旗艦を河内から摂津へ変更。   (2019/7/20 20:54:05)

マックス・シュルツ名字夜神ですかね?   (2019/7/20 20:54:18)

マックス・シュルツ喪失   (2019/7/20 20:54:28)

マックス・シュルツ7月12日、徳山湾には第一艦隊各艦 (山城、扶桑、伊勢、摂津、河内、利根、他駆逐艦)が停泊していた。 天候は不良、暴風雨で視界は極めて悪かった。 15時51分頃、 右舷1番砲塔付近で 小爆発、続いて大爆発が起こった。 艦内中甲板に高温のガスが走り、1番砲と3本の煙突から火焔が吹き出て、前部マストが倒壊した。 右舷舷側が約120フィートに渡り破壊され、 艦は右舷に傾斜、その後急速に回転し約4分で転覆、 傾斜120度(8月中旬で166.5度)で水深約12mの海底に着底した。 爆発の原因は1番砲塔火薬庫にあった常用期限から5年過ぎた火薬の発火と後に推測されている。 当時河内の乗員は1,035名だった(傭人を除く)。   (2019/7/20 20:55:30)

マックス・シュルツこの事故により621名が殉職 (7月18日午後8時現在で傭人9名を含む、 その後7月20日に一等水兵1名死亡)、 正木(河内艦長)は戦艦山城に救助された。 皇太子(のち昭和天皇)は侍従武官及川古志郎海軍少佐を慰問のために派遣した。 7月23日、2隻(摂津、河内)は第二戦隊から除かれ、健在の摂津は第一戦隊へ転出、 第二戦隊は8月19日までは在役艦が無い書類上だけの隊となる。 復旧は断念され、9月21日に除籍。 艦艇類別表からも削除された。 その後、河内の船体は現場で解体された。 解体は他の3海軍工廠の応援を受けて呉海軍工廠が行い、使用可能な兵器、機関、艤装品などを引き揚げ、解体した船体(鋼材)は呉海軍工廠での製鋼原料とする計画だった。 楠木正成の座像や四條畷神社真景画も回収された。 ただし船体が泥に埋まっていたため、約30パーセントの部材が放置された。   (2019/7/20 20:56:50)

マックス・シュルツ1919年(大正8年)、山口県富田町の海岸に「帝國軍艦河内殉難者英霊之碑」が建立され、事故から1年になる7月12日に除幕式が行われた。 この日は徳山湾に第一艦隊が集結、 式には山下大将、中山知事などが参列し、 余興で下士官兵による相撲が行われた。   (2019/7/20 20:57:23)

マックス・シュルツ    (2019/7/20 20:57:26)

マックス・シュルツ    (2019/7/20 20:58:02)

夢見梅都(うと) 男 人狼 擂兎を狙う人狼。擂兎を物理的に食べようとしてるのに違う方の意味で食べようとしているとよく誤解される不憫な人狼。元々は高貴な身分の人狼だったらしい。   (2019/7/20 20:58:18)

夢見夜神…ん…??デスノートじゃないですか(腹筋崩壊)   (2019/7/20 20:59:44)

マックス・シュルツま、まさかのホモォ…┐(^p^)┐((   (2019/7/20 21:00:34)

マックス・シュルツ良かった分かってくれた((   (2019/7/20 21:00:45)

夢見梅都『ホモじゃねーよ!!!』擂兎『自分のセクシャルを正直に言ってもいいんだよ…??(引きぎみスマイル)』梅兎『引かないで』   (2019/7/20 21:02:36)

マックス・シュルツヤンクイ「じゃあなんなんですか?ホモォですか?」((   (2019/7/20 21:03:43)

夢見梅兎『同じ意味じゃないかよ!!!』擂兎『正直になろう?(引きぎみスマイル続行)』   (2019/7/20 21:05:14)

夢見ヒェッすみません親落ち…(;;´^`)ノシ   (2019/7/20 21:05:56)

おしらせ夢見さんが退室しました。  (2019/7/20 21:06:00)

マックス・シュルツヤンクイ「じゃあなんなんですか!認定しますよ!」(   (2019/7/20 21:07:05)

マックス・シュルツおぉう…了解ですっ   (2019/7/20 21:07:15)

マックス・シュルツ    (2019/7/20 21:13:12)

マックス・シュルツ摂津 (戦艦、標的艦) 男 169cm 河内の弟。腹の内が読めず基本的によく分からない。自由人。よくナンパしてる。いつも余裕そう。柔軟過ぎる故か河内にも警戒されている。女性には紳士的だが男性にはかなり辛辣。河内とは違い、軍を抜けた赤城丸を含める人たちにはかなり軽々しく接している。関西弁を喋る。   (2019/7/20 21:21:15)

マックス・シュルツ    (2019/7/20 21:21:41)

マックス・シュルツ摂津(せっつ)は、日本海軍の戦艦。日本海軍の法令上は旧字体の攝津であり、旧字体を用いる文献・資料もあるが、摂津とする。本艦は大正天皇と貞明皇后、双方の御召艦になったことがある。 姉妹艦は「河内」。戦闘への参加は無かったが、第一次世界大戦にも参加している。摂津はワシントン海軍軍縮条約にともない戦艦「陸奥」の代艦として、1923年(大正12年)10月1日に戦艦から標的艦(特務艦)となった。駆逐艦「矢風」によって遠隔操作される無人艦というのが一般的に知られている。 艦名は旧国名「摂津国」にちなんで命名された。 日本海軍の艦船としては「摂津艦」に続いて2代目。   (2019/7/20 21:22:31)

マックス・シュルツ「戦艦」摂津   (2019/7/20 21:22:50)

マックス・シュルツ1909年(明治42年)1月18日、摂津は呉工廠で起工した。 同年2月12日、日本海軍は横須賀海軍工廠の伊号戦艦を「河内」、呉海軍工廠の呂号戦艦を「摂津」と呼称することを内定する。 1911年(明治44年)3月30日、摂津は進水した。明治天皇皇太子(のち大正天皇)は戦艦「鹿島」(供奉艦「薩摩」)に乗艦して呉軍港に到着、摂津進水式に臨席した。 同日附で呂号戦艦は制式に攝津と命名される。戦艦に類別された。 1912年(明治45年)7月1日、摂津は竣工した。竣工時、摂津国一宮の住吉大社より、同神社の約1/40模型が「摂津」に寄贈された。 1914年(大正3年)3月下旬、大正天皇皇太子(当時13歳の裕仁親王。のち昭和天皇)および弟宮(雍仁親王、宣仁親王)は江田島に行啓することになった。3月20日、三宮は御召艦「薩摩」に乗艦、「摂津」は先導艦、「石見」は供奉艦を務めた。航海中の3月22日には軍艦3隻(筑波、金剛、周防)が合流し、御召艦以下と演習をおこなった。   (2019/7/20 21:24:38)

マックス・シュルツ1918年(大正7年)7月12日、徳山湾には艦艇多数(山城、扶桑、伊勢、摂津、河内、利根、他駆逐艦)が停泊していた。この日の午後3時57分、姉妹艦「河内」が爆沈した。 1919年(大正8年)10月下旬、横浜沖合で観艦式が行われ、同式典で「摂津」は大正天皇の御召艦となる。 10月23日午前、大正天皇は横浜港で摂津に乗艦、館山湾で仮泊する。 10月24日、大正天皇(御召艦摂津)は海軍特別大演習を統裁するが、戦艦「日向」で砲塔爆発事故、駆逐艦「浜風」で艦橋損傷事故が発生した。 10月25日、大正天皇は横浜港で「摂津」を退艦、お召し列車で東京に戻った。 10月28日午前8時45分、大正天皇は横浜港に到着。御召艦「摂津」に乗艦した。 式典にあたり、皇太子(当時18歳。のち昭和天皇)は戦艦「扶桑」から「摂津」に移乗し、天皇を出迎えた。供奉艦は平戸・香取・筑摩・満州。午後2時30分、「摂津」は横浜港に到着し、天皇・皇太子は退艦した。   (2019/7/20 21:26:11)

マックス・シュルツ「標的艦」摂津   (2019/7/20 21:26:24)

マックス・シュルツ1921年(大正10年)11月からはじまったワシントン海軍軍縮会議当時、アメリカは日本海軍の長門型戦艦2番艦「陸奥」を未完艦とみなし(会議中、日本側主張により既成艦と認める)、日本が保有可能し得る主力艦に計上していなかった。日本側は強く反発し、「摂津」を犠牲にして「陸奥」を復活させる意向であった。 1922年(大正11年)2月6日、各国はワシントン海軍軍縮条約締結に至る。 日本海軍の保有主力艦(戦艦)は10隻であった。すなわち金剛型(金剛、比叡、榛名、霧島)、扶桑型(扶桑、山城)、伊勢型(伊勢、日向)、長門型(長門、陸奥)と定められ、「陸奥」の代艦として「摂津」は退役させられることとなった。だが廃艦にする主力艦のうち1隻は標的艦に変更することが出来たため、日本側は「摂津」をあてた。   (2019/7/20 21:28:02)

マックス・シュルツ同年3月、大正天皇皇后(貞明皇后)は香椎宮に参拝する。「摂津」は皇后の御召艦となるが、これは艦内に余裕があったこと、関門海峡を通過しやすかったこと、先に「摂津」が大正天皇の御召艦になった事がある、などの観点から決められたという。3月9日に葉山を出発した皇后は、19日以降香椎宮・筥崎宮・大宰府天満宮を参拝する。23日、皇后は門司港から駆逐艦「萩」に乗艦、つづいて「摂津」に移乗した。皇后は3月24日から26日にかけて、江田島の海軍兵学校に行幸する。当時、兵学校(校長鈴木貫太郎中将)には高松宮宣仁親王(大正天皇三男)が生徒として在籍していた。26日朝、皇后(摂津)は江田島を出発、神戸港で退艦した。   (2019/7/20 21:28:51)

マックス・シュルツ1923年(大正12年)10月1日、摂津は軍艦籍および艦艇類別等級表より除籍された。標的艦(特務艦)に類別変更される。 この類別変更にともない、主砲や装甲など戦闘艦としての装備を全廃した。同時期、海岸要塞砲の整備計画をすすめていた日本陸軍は、日本海軍に要塞砲の製造を依頼していた。陸海軍の調査と協議の結果、「保転砲」として数隻分の艦載砲を陸上要塞砲に転用することが決まる。摂津の50口径12インチ連装砲2基(前後砲)は陸軍クレーン船「蜻州丸(せいしゅうまる)」によって長崎県対馬要塞まで運搬される。同要塞の竜ノ崎砲台に設置され、一号(後部砲塔)は1929年(昭和4年)に、二号(前部砲塔)は1935年(昭和10年)に完成した。45口径12インチ砲連装砲4基(舷側砲)は予備品として分解保存された。 なお、12センチ砲1門が福岡県の香椎宮に寄贈され、いまなお保存されている。   (2019/7/20 21:30:15)

マックス・シュルツ標的艦となった当初の「摂津」は、自身が標的となるのではなく標的となる目標を曳航するのが任務であった。一例として、摂津は標的艦土佐(加賀型戦艦2番艦)を自沈地点まで曳航する任務にも従事した。標的艦となった「摂津」であったが、数年後には予備艦となり呉軍港で係留された。 一方、日本海軍はドイツで戦艦の無線操縦に成功したとの情報を1921年に得て研究に着手。1928年には電動機と電池を用いたシステムで駆逐艦「卯月」での実験に成功した。 またアメリカ海軍は戦艦ユタを標的艦に改造し、ドイツ海軍の戦艦テューリンゲンも標的艦に改造されていた。これらは無線操縦・無人航行が可能であったが、そのためにはボイラーの自動制御が必要であった。日本海軍はドイツ海軍からボイラーの自動燃焼装置(制御装置)を輸入。舞鶴海軍工廠で試作品をつくり、同工廠で建造中の初春型駆逐艦夕暮(1934年5月6日進水、1935年3月30日竣工)に装備して実験を重ねた。完成品は呉海軍工廠に送られ、摂津に装備された。   (2019/7/20 21:32:12)

マックス・シュルツ爆撃標的艦への改造   (2019/7/20 21:32:24)

マックス・シュルツ1936年(昭和11年)に摂津の無線操縦爆撃標的艦への改造が決まり、呉海軍工廠において1937年(昭和12年)1月から約半年間をかけて改造がおこなわれた。本格的な無人操縦装置を取り付ける。すなわち駆逐艦矢風を操縦船とし、10キロ演習用爆弾の高度4000メートルからの投下に耐えられるよう甲板・艦橋・煙突等の防御を強化した。標的艦への改造にあたり、機関部に大きな変化があった。主機は直結式タービン2基2軸25,000馬力のままだが、宮原式混燃ボイラ16基の大部分を撤去する。かわりに呂号艦本式重油専燃ボイラー4基を搭載、このうち2つに自動燃焼装置を装備した。ボイラーの減少により、3本あった煙突のうち第2煙突を撤去した。残った2つのボイラーを換装し少しでも速力低下を防いだが、速力は20ノットから16ノットに低下した。「摂津」の遠隔操作命令は針路管制14種、速度管制8種、煙幕展開などその他15種の合計37種があった。 1939年(昭和14年)11月15日、日本海軍は有事を想定した艦隊編制を実施する。当時の軍令部は、翌年3月頃から摂津と矢風を連合艦隊に加える予定であった。   (2019/7/20 21:35:40)

マックス・シュルツ1940年の改造   (2019/7/20 21:36:13)

マックス・シュルツその後1939年(昭和14年)から1940年(昭和15年)にかけて第二次改造工事を実施した。重巡クラスの砲撃訓練、及び航空機の雷・爆撃訓練を航空機側のみならず操艦側の回避訓練にも使用可能なように、防御をさらに強化した。軍縮条約によって取り外していた舷側装甲を復活する。また航空攻撃に対応して、艦上部構造物や水平面の防御を強化した。すなわち10キロ演習爆弾の高度6000メートルからの投下、30キロ演習爆弾の高度4000メートルからの投下、射距離22000メートルからの20センチ演習砲による砲撃、射距離5000メートルからの14センチ演習砲による砲撃などに耐えられるようにした。回避操船訓練のため速力が求められるため、休止していた第2ボイラーを戦艦金剛の陸揚罐と換装する。第2煙突を復活させ速力は17.4ノットに向上した。 艦橋安全区画からの着弾観測の妨げにならないよう、第一煙突の高さが短縮された。   (2019/7/20 21:37:03)

マックス・シュルツ砲撃訓練時、乗組員は摂津より退艦する(無人状態)。爆撃訓練時、乗組員は摂津防禦区画に退避して操艦する。この訓練は、爆撃回避行動の訓練も兼ねた。これらの改装により航空機部隊の練度や艦長の操艦技術向上に繋がり、戦果向上の一助となる。一例として、摂津艦長時代に航空攻撃回避術を研究、後の捷一号作戦で第四航空戦隊司令官として、激しい米軍機の攻撃から指揮下の「日向」「伊勢」を無事生還させた松田千秋が特に有名である。 なお摂津及び「矢風」を初めとする標的艦やそれに従事する艦には、煙突部分に算盤玉のようなキャップが装着された。これは砲弾や爆弾が開口部から進入し、機関を破壊するのを防止するための装甲化された覆いである。排煙はキャップと開口部の隙間から出るようになっていた。   (2019/7/20 21:37:43)

マックス・シュルツその後   (2019/7/20 21:38:04)

マックス・シュルツ1940年(昭和15年)5月1日、2隻(摂津、矢風)は連合艦隊に編入された。同年10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式では、矢風と揃って第二列に配置された。 1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦後も特に日本周辺から離れることはなく呉を母港として過ごした。 1944年(昭和19年)2月1日、城英一郎大佐は連合艦隊司令部附となり、瀬戸内海西部の摂津で操艦の訓練を積んだ。2月15日、城大佐は正式に空母千代田艦長に任命され、千代田に着任した。 同年3月1日、摂津は第一航空艦隊附属となり、瀬戸内海で訓練に従事した。 1945年(昭和20年)7月24日、摂津はアメリカ軍機による呉軍港空襲を受け大破する。着底し、そのまま終戦を迎えた。1945年11月20日、除籍。   (2019/7/20 21:38:51)

マックス・シュルツ無人操縦装置の原理   (2019/7/20 21:41:10)

マックス・シュルツシステムメッセージ: 発言にNGワードが含まれています(電話番号の疑い)  (2019/7/20 21:41:23)

マックス・シュルツへ!?   (2019/7/20 21:41:30)

マックス・シュルツ逸話   (2019/7/20 21:41:45)

マックス・シュルツ標的艦に改造した山本正治(当時、海軍技術研究所の電気実験部)によれば、艦政本部から改造の依頼が来たのは昭和10年のことであり、壊れやすい送受信機の耐震対策に苦労し、ゴムベルトで機器を吊るすだけでなく、自転車のチューブを用いた実験も行ったとされる。また「開戦直前、機動部隊の空母のふりをして、南シナ海から台湾、フィリピン方面まで進出し、盛んに機動部隊の呼出符号を使って偽電を発信し、アメリカ(米海軍)はこの電波を機動部隊のものだと信じたようだ」と答えている。   (2019/7/20 21:41:58)

おしらせマックス・シュルツさんが退室しました。  (2019/7/20 21:42:25)

おしらせマックス・シュルツさんが入室しました♪  (2019/7/21 09:49:27)

マックス・シュルツ勢多 (砲艦) 男 177cm  河内の部下。河内だけでなく様々な上司にも尊敬があり、目標となっている。真面目で努力家だが、頑張りすぎて最近寝不足気味。ネームシップ故のプライドと期待を持っており、自分を責めやすい性格。   (2019/7/21 09:58:31)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 09:58:45)

マックス・シュルツ播磨造船所において1922年11月に完成、それを解体し上海に輸送、東華造船会社で組立てを行い、1923年10月6日に竣工、二等砲艦に類別された。 1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。日中戦争において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。 終戦時には上海で顕在であり、その後、中華民国に接収され国府海軍の「長徳 Chang-Teh」となった。1949年11月30日に郝穴等と共に中華人民共和国に投降。「閩江」と改名され、1960年代まで在籍していた。   (2019/7/21 09:58:48)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 09:58:51)

マックス・シュルツ保津 (砲艦) 男 176cm  兄貴性分で面倒見が良い。生真面目で頑固な勢多を心配している。時々京都弁が出るらしく癖。   (2019/7/21 10:02:53)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:02:55)

マックス・シュルツ保津(ほづ)は、日本海軍の砲艦。勢多型砲艦の3番艦である。艦名は京都府を流れる「保津川」にちなんで名づけられた。   (2019/7/21 10:03:18)

マックス・シュルツ三菱神戸造船所において完成、それを解体し漢口に輸送、揚子江機器有限公司で組立てを行い、1923年11月7日に竣工、二等砲艦に類別された。 1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。日中戦争において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。 1944年11月26日、安慶付近で座礁、12月5日、中国軍機の爆撃を受け大破着底した。1945年5月10日に除籍され、解体された。   (2019/7/21 10:04:10)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:04:20)

マックス・シュルツ比良 (砲艦) 男 178cm 剽軽で考えが読めない。自由人で何事にも縛られない。女タラシでだらしないがやる時はやる頼りがいのあるやつ。   (2019/7/21 10:11:01)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:11:08)

マックス・シュルツ比良(ひら)は、日本海軍の砲艦。勢多型砲艦の2番艦である。艦名は「近江八景」の一つ「比良の暮雪」で知られる景勝地「比良山地」にちなんで名づけられた。   (2019/7/21 10:11:31)

マックス・シュルツ三菱神戸造船所において完成、それを解体し漢口に輸送、揚子江機器有限公司で組立てを行い、1923年8月24日に竣工、二等砲艦に類別された。 1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。日中戦争において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。 1944年11月26日、安慶で中国軍機の爆撃を受け大破し、そのまま終戦を迎えた。1945年9月30日に除籍された。   (2019/7/21 10:11:47)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:11:50)

マックス・シュルツ堅田 (砲艦) 男 167cm  趣味はバイオリンを弾くこと。意地が悪い。無神経で独り言が多い。高圧的で冷静。全く泣かないどころが感情が薄い。ほとんど一人でいてバイオリン持参している。   (2019/7/21 10:18:13)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:18:27)

マックス・シュルツ堅田(かたた)は、日本海軍の砲艦。勢多型砲艦の4番艦である。   (2019/7/21 10:18:32)

マックス・シュルツ堅田は河用砲艦と表現したほうが正確であり、揚子江の上流のような浅いところまで行けるように船体の水面下の深さは1.2メートルであった。全長は揚子江上流の三峡の険を減水期でも通れるように設計された。兵装は薄弱だったが、攻撃となると火力のほとんどが一か所から一地点に向けられるので、集中火力のすごさは陸軍の一個大隊以上とも評される。 下駄を裏返して浮かべたような格好の艦で「ゲタぶね」という俗称がある。   (2019/7/21 10:19:02)

マックス・シュルツ1922年11月、播磨造船所においてに完成。それを解体し上海に輸送、東華造船会社で組立てを行い、1923年10月20日に竣工、二等砲艦に類別された。 1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。1937年7月から開始した支那事変において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。 1941年12月、太平洋戦争が勃発。堅田は揚子江部隊に加わって活動したり、漢口から上海までを往来して警備任務についていた。1942年5月から9月の間、浙贛作戦に参加。堅田は他の砲艦2隻、特設砲艇4隻と組んで洞庭湖部隊として、陸軍部隊の作戦に呼応して湖内に進入し、敵拠点に砲撃を加えた。 1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。1945年4月2日、九江で米空軍機の攻撃を受け大破着底し、その後引揚げられ、終戦時には上海で曳航された状態であった。1947年5月3日に除籍された。   (2019/7/21 10:19:44)

マックス・シュルツ     (2019/7/21 10:26:54)

マックス・シュルツ燕 (敷設艇) 男 182cm  山口弁を喋る。危ない思想を持つ殺人狂で、影で暗殺を営んでいる。飄々としていて不気味な雰囲気を持つ。大将ガチ勢なため微ヤンデレ。変わった鯨爪という刃を使う。身軽で速い。   (2019/7/21 10:32:31)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:32:45)

マックス・シュルツ燕(つばめ)は、日本海軍の敷設艇。燕型敷設艇の1番艇。艇名としては隼型水雷艇の8番艇「燕」に続いて2代目。   (2019/7/21 10:32:48)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:33:20)

マックス・シュルツ鴎 (敷設艇) 男 180cm 優しく冷静。影が薄いのを利用して燕と同様暗殺を手伝っている。意思が弱く主張もしない。のんびり屋でマイペース。料理が下手。同じく山口弁を喋る。大将にはかなりデレデレ。甘え上手。   (2019/7/21 10:36:44)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:36:46)

マックス・シュルツ鴎(かもめ)は、日本海軍の敷設艇。燕型敷設艇の2番艇。艇名としては隼型水雷艇の13番艇「鴎」に続いて2代目。   (2019/7/21 10:37:07)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:41:06)

マックス・シュルツバージニア (戦艦) 男 188cm  強気。孤高の存在のため極度の人見知り。自分の意見を押し通す完璧主義。強固な意思を持っている。周りからの重い期待により造られた存在なため、他の人は高貴な存在と勘違いし近寄ることもない。本人にとってそれが一番の重荷である。   (2019/7/21 10:45:48)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:45:51)

マックス・シュルツバージニア(USS Virginia, BB-13)は、アメリカ海軍の戦艦。バージニア級戦艦の1番艦。艦名はバージニア州に因む。その名を持つ艦としては5隻目。   (2019/7/21 10:46:16)

マックス・シュルツバージニアは1902年5月21日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工し、1904年4月6日にゲイ・モンタギュー(バージニア州知事の娘)によって命名、進水、1906年5月7日に初代艦長シートン・シュレーダー大佐の指揮下就役した。 艤装完了後バージニアはリンヘヴン湾、そしてロングアイランド沖に整調巡航を行った後8月9日にロードアイランド州ブラッドフォードで石炭の補給を行う。メイン州ロックランド沖でのスクリュー標準化公試の後、バージニアはロングアイランド湾で訓練を行い、その後9月2日から4日までセオドア・ルーズベルト大統領の自宅があるオイスター・ベイ沖に停泊し、大統領の観閲を受けた。   (2019/7/21 10:46:40)

マックス・シュルツその後整調巡航を継続し、ブラッドフォードで再び石炭を補給する。1906年8月、キューバで反乱が発生する。ピナール・デル・リオ州で発生した暴動は秋には規模が拡大し、トーマス・エストラダ・パルマ大統領はアメリカ合衆国に介入を要請した。9月中旬までに8,000名のキューバ警察は暴動を鎮圧することができず、バージニアは事態の改善のため1906年9月15日にニューポートを出航する。21日にハバナに到着、都市防衛の準備を行い10月18日まで同水域で待機した。 バージニアはノーフォークに到着すると、フレデリック・ファンストン将軍を上陸させ、石炭を補給した後トンプキンズヴィルへ向かう。その後ニューヨーク海軍工廠で乾ドック入りし石炭の補給と艦底部の塗装を行い、続いて1906年11月3日から1907年2月18日までノーフォーク海軍造船所で修理、変更を行う。2月19日から3月23日の間にニューヨーク海軍工廠で射撃管制装置を設置した後キューバ水域に向かい、3月28日にグアンタナモ湾で艦隊と合流する。   (2019/7/21 10:46:57)

マックス・シュルツキューバ水域では射撃訓練を行い、その後4月10日にジェームズタウン300周年記念式典参加のためハンプトン・ローズに向かう。4月15日から5月15日まで一ヶ月間ハンプトン・ローズに留まり、6月前半にノーフォーク海軍造船所で修理を行う。その後6月7日から13日の間にハンプトン・ローズでルーズベルト大統領による観閲を受ける。6月中旬から7月中旬までコッド岬沖で射撃訓練を行い、続いてニューポート、ノース・リバー、マサチューセッツ州プロヴィンスタウンを訪れた後コッド岬で昼間、夜間戦闘訓練を行う。 秋には南方に戻り、9月24日から11月24日までノーフォーク海軍工廠で2か月の修理および変更を受けた後、11月にニューヨーク海軍工廠でさらに修理を受ける。その後再び南方に向かい、12月6日にハンプトン・ローズに到着した。 バージニアはグレート・ホワイト・フリートの世界巡航へ参加するための準備を行い、1907年12月17日に出航する。巡航はワシントンの誕生日である1909年2月22日に完了した。   (2019/7/21 10:47:30)

マックス・シュルツ巡航の間に艦隊は南アメリカ沿岸の港や、アメリカ合衆国の西海岸、ハワイ、フィリピン、日本、中国、セイロン島を訪問した。更にバージニアの部隊はベイルート経由でトルコのイズミルを訪問した。艦隊は出港時と帰港時それぞれにルーズベルト大統領の観閲を受け、アメリカ海軍の威容を世界に知らしめた。 世界巡航後バージニアは1909年2月26日から6月26日までノーフォーク海軍工廠で4か月の修理および変更を行う。翌年はバージニア岬沖の訓練水域からロードアイランド州ニューポートまでの範囲で作戦活動に従事した。この間に海軍民兵を乗艦させ、ロックポート及びプロヴィンスタウンへの短期巡航を行う。   (2019/7/21 10:47:53)

マックス・シュルツ1909年11月15日から12月7日および12月8日から12月29日にバージニアはフランスのブレスト、イギリスのグレーヴズエンドを訪れた。その後グアンタナモ湾で大西洋艦隊に加わり演習を行う。バージニアは1910年1月13日から3月13日までの2ヶ月間をキューバ水域での作戦活動に費やし、続いて南部訓練海域で戦闘訓練を行った。 4月11日にはジョージア(USS Georgia, BB-15)と共にハンプトン・ローズを出航し、二日後にボストン海軍工廠に到着、5月24日まで修理を行った後プロヴィンスタウンへ向かう。続く5日間を給炭艦ヴェスタル(USS Vestal, AR-4)と共に海上燃料補給訓練で費やし、その後水雷訓練を行う。バージニアは6月18日にボストン海軍工廠へ帰還した。   (2019/7/21 10:48:07)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:48:09)

マックス・シュルツネブラスカ (戦艦) 男 186cm  自己中心的。活発で嘘が多く罪悪感も無い。常に冷静。いつもニコニコと笑っているが…。   (2019/7/21 10:50:43)

マックス・シュルツネブラスカ(USS Nebraska, BB-14)は、アメリカ海軍の戦艦。バージニア級戦艦の2番艦。艦名はネブラスカ州に因む。元の艦名はペンシルベニアであった。   (2019/7/21 10:50:56)

マックス・シュルツネブラスカは1902年7月4日にワシントン州シアトルのモラン・ブラザース社で起工し、1904年10月7日にマリー・N・ミッキー(ネブラスカ州知事ジョン・H・ミッキーの娘)によって命名、進水、1907年7月1日に初代艦長レジナルド・F・ニコルソン大佐の指揮下で就役した。 ネブラスカは1908年5月6日にサンフランシスコでアラバマと交代でグレート・ホワイト・フリートに加わった。7月7日にサンフランシスコを出港した艦隊はホノルル、オークランド、シドニー、メルボルン、マニラ、横浜、コロンボを訪れ、1909年1月3日にスエズに着いた。9日にメッシーナを艦隊は出港し、ナポリ、ジブラルタルを訪れ、2月22日にハンプトンローズに着いた。   (2019/7/21 10:51:14)

マックス・シュルツネブラスカは1909年のハドソン・フルトン祭(Hudson-Fulton Celebration)、1912年のルイジアナ百年祭(Louisiana Centennial)に参加した。 1917年4月6日にアメリカは第一次世界大戦に参戦したが、この時ネブラスカは修理中であった。4月13日にボストンを出港してネブラスカは大西洋艦隊とのチェサピーク湾地域での演習に向かった。その後は東海岸で単独で行動し、1918年4月15日に修理のためノーフォーク海軍工廠に入った。 1917年5月16日、ネブラスカはウルグアイの特命全権公使、Carlos M. DePenaの遺体を載せてハンプトンローズを出港、6月10日に太平洋艦隊の旗艦ピッツバーグと共にモンテビデオに到着し、遺体を引き渡した。ネブラスカは6月15日にモンテビデオを出港して7月26日にハンプトンローズに戻った。   (2019/7/21 10:51:31)

マックス・シュルツ1917年9月17日、ネブラスカは18隻の商船からなる船団の護衛としてニューヨークを出港した。10月3日にハンプトンローズに戻った後ネブラスカはさらに2度船団護衛を行った。 ネブラスカは1918年12月30日から1919年6月21日までに4度アメリカとフランス、ブレストの間の航海をおこない、4,540名の兵士を運んだ。その後は西海岸で行動し、1920年7月2日に退役した。ネブラスカはワシントン海軍軍縮条約によって廃艦となり、スクラップとして売却された。   (2019/7/21 10:51:49)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:51:51)

おしらせ白雪さんが入室しました♪  (2019/7/21 10:55:54)

白雪あい   (2019/7/21 10:56:13)

マックス・シュルツジョージア (戦艦) 男 185cm  凛とした性格で親しみやすい青年。大雑把で少し適当。未成艦なため実現しなかったことを気にしている。真っ直ぐで揺るぎない正義を掲げ戦っている。ただ少し迷走しやすいが。面倒見が良い上に兄貴分なため好かれやすい。   (2019/7/21 10:57:40)

白雪さらっとRe:EGSに追加してった   (2019/7/21 10:57:42)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:57:51)

マックス・シュルツあ、こんにちは~   (2019/7/21 10:57:58)

マックス・シュルツおぉ、後で見ておきます ビシッ   (2019/7/21 10:58:15)

白雪ちはっす、ジョージアでコーヒーを思い浮かんだ   (2019/7/21 10:58:29)

マックス・シュルツま、まぁ有名ですから…((ちなみに今それ飲んでます   (2019/7/21 10:58:52)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 10:58:55)

マックス・シュルツジョージア(USS Georgia, BB-15)は、アメリカ海軍の戦艦。バージニア級戦艦の3番艦。艦名はジョージア州に因む。   (2019/7/21 10:58:57)

白雪まじか(   (2019/7/21 10:59:08)

マックス・シュルツジョージアは1901年8月31日にメイン州バスのバス鉄工所で起工し、1904年10月11日にステラ・テートによって命名、進水、1906年9月24日にボストン海軍工廠で初代艦長R・G・ダヴェンポート大佐の指揮下就役した。   (2019/7/21 10:59:11)

マックス・シュルツでもブラックだと飲めないんですよ、なんでやろ…   (2019/7/21 10:59:30)

白雪ブラック飲めない…シロップとかないとムリ   (2019/7/21 11:00:02)

マックス・シュルツわかる   (2019/7/21 11:00:09)

白雪白黒つけないカフェオレ((   (2019/7/21 11:00:36)

マックス・シュルツ白黒つけられてるよシロップいる時点で!(   (2019/7/21 11:01:31)

白雪(^。^;)   (2019/7/21 11:01:57)

マックス・シュルツシロップ…ないときつい   (2019/7/21 11:04:50)

白雪一回なんか砂糖とか無しでコーヒーのんだらにっっがかった   (2019/7/21 11:07:12)

マックス・シュルツあー、わかる。初見だと気になりますもんね元の味。   (2019/7/21 11:07:37)

白雪心の中で「大人の味だぁ!!」   (2019/7/21 11:10:48)

白雪と思った   (2019/7/21 11:14:34)

マックス・シュルツそれな((   (2019/7/21 11:15:46)

白雪なんかします?   (2019/7/21 11:16:26)

マックス・シュルツもうちょっと書きますが終わったら本ルムに移動するつもりです。   (2019/7/21 11:16:51)

白雪了解(。・ω・)ゞ   (2019/7/21 11:18:39)

マックス・シュルツニュージャージー (戦艦) 男 184cm  優しいが暗い。人が喋ってる最中に口を挟む。周りの態度を伺いやすいためか反応に敏感。人の目を気にしやすい。真面目。掃除が出来ない上に不器用。   (2019/7/21 11:24:46)

マックス・シュルツニュージャージー(USS New Jersey, BB-16)は、アメリカ海軍の戦艦。バージニア級戦艦の4番艦。艦名はニュージャージー州に因む。   (2019/7/21 11:25:15)

マックス・シュルツニュージャージーは1902年4月2日にマサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船所で起工し、1904年11月10日にウィリアム・B・ケニー夫人(ニュージャージー州知事フランクリン・マーフィーの娘)によって命名、進水、1906年5月12日に初代艦長ウィリアム・W・キンボール大佐の指揮下就役した。   (2019/7/21 11:25:31)

マックス・シュルツ    (2019/7/21 11:25:34)

マックス・シュルツロードアイランド (戦艦) 男 185cm  温厚で粗暴。独り言が多く頑固者で人気者。かなりの腹黒。   (2019/7/21 11:27:42)

マックス・シュルツロードアイランド (USS Rhode Island, BB-17) は、アメリカ海軍の戦艦。バージニア級の5番艦。艦名はロードアイランド州に因む。その名を持つ艦としては2隻目。   (2019/7/21 11:27:54)

マックス・シュルツロードアイランドは1902年5月1日にマサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船所で起工し、1904年5月17日にF・C・デュメイン夫人によって命名、進水、1906年2月19日に初代艦長ペリー・ガースト大佐の指揮下就役した。 ロードアイランドは広範囲な整調航海及び公試をバージニア州ハンプトン・ローズとボストンの間で行い、1907年1月1日に大西洋艦隊第1戦隊第2部隊に配属される。1907年3月9日にハンプトン・ローズを出航し、キューバのグアンタナモ湾で砲撃訓練および艦隊作戦行動を行う。その後北に向かいハンプトン・ローズとケープコッド湾の間を巡航した。   (2019/7/21 11:28:10)

マックス・シュルツ1907年12月8日にハンプトン・ローズに到着、ロードアイランドは他の15隻の戦艦、魚雷艇部隊、輸送艦隊と合流する。ルーズベルト大統領は12月16日に「グレート・ホワイト・フリート」を観閲し、最初の世界巡航に送り出した。ロードアイランドはトリニダード、リオデジャネイロ、プンタ・アレーナス、カヤオ、マグダレーナ湾を訪問し、1908年4月14日にカリフォルニア州サンディエゴに到着した。 艦隊は7月まで西海岸に留まり、ロードアイランドは6月にピュージェット・サウンドに向かう。全艦隊は1908年7月7日にサンフランシスコを出航しホノルル、オークランド、シドニー、メルボルン、マニラに向かう。10月2日にフィリピンに到着し、ロードアイランドはマニラから横浜に向かう。10月末にフィリピンのオロンガポに戻り、12月1日にカヴィテを出航、コロンボ、スエズ、マルセイユ、ジブラルタルを訪問し1909年2月22日にハンプトン・ローズに帰還する。   (2019/7/21 11:28:22)

マックス・シュルツオーバーホールのためニューヨーク海軍工廠入りし、その後ロードアイランドは1909年3月8日に第1戦隊第3部隊に配属される。1910年まで大西洋艦隊に所属し様々な訓練演習に参加した。1910年10月20日に第1戦隊第4部隊に配属され、ロードアイランドと艦隊はヨーロッパ水域への展開前の11月2日にボストンでタフト大統領の観閲を受ける。艦隊は訓練を続け、ロードアイランドはイギリスのグレーヴズエンドを訪問、1911年1月13日にグアンタナモ湾に戻る。 1914年に第一次世界大戦が勃発するまでロードアイランドは大西洋艦隊での任務を継続した。1912年6月から7月の間にキーウェスト、ハバナ、グアンタナモ湾を巡航し、その後はハンプトン・ローズとメイン州ロックランドの間で作戦活動を行う。ロードアイランドは大西洋艦隊第1戦隊第3部隊に配属され1912年7月17日に旗艦となる。8月1日にニュージャージー(USS New Jersey, BB-16)と旗艦任務を交代した。   (2019/7/21 11:28:36)

マックス・シュルツ1913年6月28日に第1戦隊第3部隊司令官旗がヴァージニア(USS Virginia, BB-13)から移され、1918年1月14日まで司令官が座乗した。1913年末にロードアイランドはメキシコの政情不安のため脅かされた米国市民および権益保護のためメキシコ水域を巡航した。1913年11月4日にベラクルス沖に到着し、1914年2月までタンピコとツースパンの間で作戦活動に従事する。2週間後にグアンタナモ湾からバージニア水域へ向けて帰還する。 ロードアイランドはドック入りおよびオーバーホールを行い、1916年まで砲術訓練、艦隊演習を定期的に行う。そのまま東海岸で行動したが、しばしば南方に巡航した。1914年10月から1915年3月および1916年1月から2月にかけてカリブ海の港湾訪問を行う。1914年12月19日から1915年1月20日までロードアイランドは第1戦隊第4部隊の旗艦であった。   (2019/7/21 11:28:52)

マックス・シュルツロードアイランドは1916年5月15日にボストン海軍工廠で予備役となり、翌日大西洋艦隊から除籍された。ロードアイランドは1916年6月24日から9月28日まで大西洋艦隊予備役艦隊の最高司令官旗を掲揚した。 1917年3月27日にハンプトン・ローズで再就役し、5月3日に大西洋艦隊第3戦艦隊の司令官旗を掲揚する。戦時即応状態を整えるための砲術訓練、非常時訓練を繰り返し、その後対潜水艦哨戒任務を与えられたロードアイランドはメリーランド州タンジール島沖で任務に従事した。ハンプトン・ローズを拠点として1918年まで活動し、同年4月に第2戦艦隊へ配属される。海外配備準備を整えたまま、ロードアイランドは1918年6月に特別水雷公試を行う。   (2019/7/21 11:29:06)

マックス・シュルツ1918年11月に戦争が終わり、ロードアイランドはフランスからの帰還兵輸送任務が命じられた。何百もの寝台が増設され、1918年12月18日から1919年7月4日の間に5回の大西洋横断を行う。ロードアイランドはフランスのブレストからハンプトン・ローズ、ボストンに5,000名以上の兵員を輸送した。 ロードアイランドは1919年7月17日にボストンで太平洋艦隊第1戦艦隊の旗艦に指定され、7月24日にボストン海軍工廠を出航、パナマ運河地帯のバルボア経由でメア・アイランド海軍工廠に向かう。1920年までメア・アイランド海軍工廠に留まり、同年6月30日に予備役となる。 ロードアイランドはワシントン海軍軍縮条約の下、1923年10月4日に廃艦となり、1923年11月1日にスクラップとして売却された。 ロードアイランドの艦内時鐘は、プロビデンスのロードアイランド州会議事堂に展示されている。 1997年にマーシャル諸島でロードアイランドの記念切手が発行された。   (2019/7/21 11:29:19)

おしらせマックス・シュルツさんが退室しました。  (2019/7/21 11:29:22)

おしらせ白雪さんが退室しました。  (2019/7/21 11:31:56)

おしらせ結紐さんが入室しました♪  (2019/7/25 18:49:43)

結紐Citrus・Atwood(シトラス・アトウッド)【性別:女】【年齢:16】 【身長:162cm】【容姿:絹のような質感の黄色い髪を背中の真ん中まで伸ばしている。瞳は透き通った黄緑。白ぃシャツを着て、ジーンズの短めのパンツを履き、レース素材でできている足首の上までのスカートをパンツの上に履いている。靴はコン○ースのスニーカー。腕に髪を結ぶ用のシュシュをつけている。】【性格:昔からひとりぼっちだったため人との接し方が分からずいつもきつい言い方になってしまう。本当は優しくしたい。不器用で、なんでも抱え込んでしまう。】   (2019/7/25 18:59:32)

結紐ロリ?忘れましたね((   (2019/7/25 18:59:49)

おしらせ結紐さんが退室しました。  (2019/7/25 18:59:52)

おしらせマックスさんが入室しました♪  (2019/7/26 10:39:40)

マックスこんにちは~   (2019/7/26 10:39:51)

マックスツンデレ最高だと思います((   (2019/7/26 10:43:00)

マックスフォン・デア・タン (巡洋戦艦) 男 185cm ドイツ出身。冷酷でどこか近寄りがたい雰囲気だが、本人自身気にしていることなのでじゃんじゃん話しかけてあげて。(( 潔癖症で私物を触られると露骨に嫌な顔をする。賭け事が好きでよくトランプを使って遊んでいる。攻めには弱い。謎の収集癖があるため、集まる物はいるやつなのか分からない。そこに魅力があるらしいが…。一人っ子ということもあり、人との接し方に悩んでいる。小声。   (2019/7/26 10:51:57)

マックス   (2019/7/26 10:52:16)

マックスフォン・デア・タン (SMS Von der Tann) は、第一次世界大戦時におけるドイツ帝国海軍の巡洋戦艦(独:Schlachtkreuzer) 、当時の帝国海軍においては大型巡洋艦(Großer Kreuzer)に類別されていた。艦名はバイエルン王国の将軍ルートヴィヒ・フォン・デア・タン=ラートザムハウゼン (Ludwig von der Tann-Rathsamhausen) にちなむ。   (2019/7/26 10:52:18)

マックス本艦は1907年度海軍計画で整備されたドイツ帝国海軍初の巡洋戦艦である。ドイツ帝国海軍の艦艇整備計画において、本来は1906年から1909年にかけて大型巡洋艦は1隻も建造しないことになっていた。しかし建艦競争で先行するイギリス海軍の同種艦に対抗すべく、海外警備用の大型巡洋艦を整備を決定、1906年に艦隊法を改定して大型巡洋艦も整備するよう改められた。   (2019/7/26 10:52:35)

マックス英海軍の巡洋戦艦「インヴィンシブル級」は23.4cmクラスの砲を8~10門装備するものと想定された。そこでドイツ海軍は、21cm砲を12門搭載する大型巡洋艦「ブリュッヒャー」を建造したが、インヴィンシブル級の実像は弩級戦艦並みの12インチ砲を8門搭載するもので、火力でドイツ海軍の大型巡洋艦を凌駕した。ドイツ海軍ではこの結果から大型巡洋艦にも主力艦と同程度の武装を搭載する方針を定め、続く1907年度計画の大型巡洋艦において、28cm砲を連装砲塔で4基計8門搭載する事とした。これが本艦である。本艦は英海軍の巡洋戦艦との砲撃戦を考慮し、既存の大型巡洋艦に与えられていた長大な航続性能を犠牲にして、同時期の弩級戦艦並の充実した耐弾防御を持つ点に特徴がある。また、この設計理念は歴代のドイツ巡洋戦艦にも引き継がれた。   (2019/7/26 10:52:54)

マックスブローム・ウント・フォス社で建造。1908年3月25日起工。1909年3月20日進水。 1910年9月1日竣工。第一次世界大戦では北海やバルト海で行動し、1914年11月のヤーマス襲撃、12月のスカーバラ、ハートルプールおよびウィトビー襲撃、1916年4月のヤーマス・ローストフト砲撃に参加した。 1916年5月31日、6月1日のユトランド沖海戦ではイギリスの巡洋戦艦インディファティガブルを撃沈するが、自身も大きな損害を受けた。 第一次世界大戦休戦後、スカパ・フローに抑留され1919年6月21日に自沈。1930年浮揚、1934年解体。 現在、ラーボエ海軍記念碑に船鍾が展示されている。   (2019/7/26 10:53:10)

マックスhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%B3_(%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E6%88%A6%E8%89%A6)   (2019/7/26 10:53:23)

マックスなんか成功しない…(   (2019/7/26 10:53:49)

おしらせマックスさんが退室しました。  (2019/7/26 10:53:51)

おしらせマックスさんが入室しました♪  (2019/7/26 17:22:42)

マックスクイーン・エリザベス (空母) 男 187cm  空母(強調)。戦艦で小さい方のエリザベスとは違い、こちらの風格はまさに貴族。だがそれは表の人格を演じているだけで、実のところこちらもじゃじゃ馬っ子。とにかくトラブルを起こす問題児。ポジティブで後先考えず行動する。   (2019/7/26 17:26:22)

マックス    (2019/7/26 17:26:48)

マックスHMSクイーン・エリザベス(英語: HMS Queen Elizabeth)は、イギリス海軍のクイーン・エリザベス級航空母艦の1番艦である 。   (2019/7/26 17:26:50)

マックス本艦と姉妹艦のプリンス・オブ・ウェールズはイギリス海軍史上最大の軍艦になる予定であり、それらは多目的の航空母艦として複数の任務に対応する。船体は4つのセクションがポーツマス、ロサイス、バロー・イン・ファーネス、クライドでBAEシステムズとVT グループによって建造される。最終組み立てを行うロサイスの1号乾ドックではクイーン・エリザベスとプリンス・オブ・ウェールズのために改修工事が進められている   (2019/7/26 17:27:04)

マックス2007年7月25日、国防大臣のデズ・ブラウンが、38億ポンドで2隻の発注を契約した。このニュースは政治家、労働組合に歓迎された。両艦ともポーツマス海軍基地を拠点とする予定である。この時点の計画では空母はスキージャンプ式滑走路を備え、艦載機はヘリコプターのほかF-35のV/STOL型であるF-35Bであった。 2008年12月11日、国防大臣のジョン・ハットンは2隻の就航が当初予定の2014年と2016年よりも1年か2年遅れると発表した。   (2019/7/26 17:27:36)

マックス2010年10月、クイーン・エリザベス級航空母艦の搭載機を、開発が著しく遅延しているF-35BからCTOL型のF-35Cへと変更された。この時点では36機のF-35Cと12機のヘリコプターを搭載する能力を備える2番艦と異なり、ヘリコプターのみを艦載機として搭載するヘリ空母として2016年に就役し、2019年の2番艦就役を待って予備役に編入される予定であった。   (2019/7/26 17:28:32)

マックス2012年5月10日イギリス政府は、F-35Cの実戦配備が2023年まで遅れる見込みのため再度F-35Bに変更すると発表した。   (2019/7/26 17:29:25)

マックス2009年7月9日に起工。 2014年7月4日、進水式を実施した。エリザベス2世及びエディンバラ公フィリップが出席し、エリザベス2世も訪れたことがあるボウモア蒸留所のウイスキーが入ったボトルを船体にぶつけて祝った。   (2019/7/26 17:29:44)

マックス2017年6月26日、試験航海に向けてロサイス造船所から就航。年末にはポーツマス海軍基地に入る予定である。試験航海への出発時、イギリス国防大臣のマイケル・ファロンは「(唯一の空母アドミラル・クズネツォフが旧式である)ロシアはうらやむことになる」「ロシアが近づきすぎないようあらゆる措置をとる」と発言。これに対してロシア連邦国防省が「(クィーン・エリザベスは)格好の標的」とやり返す一幕があった。   (2019/7/26 17:30:18)

マックス就役は2017年12月7日であった。同月19日、イギリス国防省は、試験航海中にスクリューのシャフト付近から浸水が発見されたと発表。今後、ポーツマスに入港したタイミングで修理が行われる予定。サン紙では、漏水の規模を毎時200リットルとしている。今後は2020年にSTOVL空母としての運用能力を持つ予定である。   (2019/7/26 17:31:44)

マックス2018年9月28日、本艦で初めてF-35Bの着艦に成功したと発表された。 2019年2月11日、本艦を2021年以降に太平洋、地中海、中東沖に派遣すると発表した。また、F-35を搭載することも同時に発表している。   (2019/7/26 17:37:46)

マックス空クイーン「俺を沈めるだァ?ハッ、ならトマホークでも持ってくるんだな。空母といえど、俺は早いぜ?」   (2019/7/26 17:39:21)

マックス    (2019/7/26 17:39:31)

マックス戦艦クイーンと空母エリザベスの違い   (2019/7/26 17:40:00)

マックスかつてはクイーン・エリザベスという客船と軍艦がイギリスに同時に存在した。1940年から1948年の間、キュナード社の客船クイーン・エリザベスと、イギリス海軍の戦艦クイーン・エリザベスが同時に現役であった。 2010年にキュナード社のクルーズ客船であるクイーン・エリザベスが就航しており2017年には約70年ぶりに同じ状況が復活した。 ただし、20世紀と21世紀どちらの艦船も、名の由来の「クイーン」は、客船は“王妃”エリザベス、軍艦は“女王”エリザベスである。   (2019/7/26 17:40:26)

マックス    (2019/7/26 17:43:13)

マックスプリンス・オブ・ウェールズ (空母) 女 167cm  空母クイーン・エリザベスの妹。悪戯好きで不信感を強く抱く空母エリザベスと似て、人の手を焼かせる。あと強気なところも。人を信じようとはしないが、なんだかんだ言いつつ甘い面も。兄妹揃って八方美人だが性格に難があるだけ。((   (2019/7/26 17:47:23)

マックス    (2019/7/26 17:49:02)

マックスHMS プリンス・オブ・ウェールズ(英語: Prince of Wales)はイギリス海軍が現在建造している航空母艦でクイーン・エリザベス級航空母艦の2番艦であり 同じ艦名として戦列艦「プリンス・オブ・ウェールズ」から数えて8代目になる。   (2019/7/26 17:49:10)

マックス2007年7月25日、国防大臣のデズ・ブラウンが38億ポンドで2隻を発注した。このニュースは政治家、労働組合に歓迎された。両艦ともポーツマス海軍基地を拠点とする予定である[6]。この時点の計画では空母はスキージャンプ式飛行甲板を備え、艦載機はヘリコプターのほかF-35のV/STOL型であるF-35Bであった。 2008年12月11日、ジョン・ハットン国防大臣は、2隻の就航が当初予定の2014年と2016年よりも1年か2年遅れると発表した。 2010年10月25日、戦略防衛・安全保障見直し2010に伴い、イギリス海軍はクイーン・エリザベス級航空母艦2隻の同時現役運用を断念すると発表した。   (2019/7/26 17:49:48)

マックス運用される航空母艦を1隻にすることで、高騰するF-35のコスト76億ポンドを削減でき、「プリンス・オブ・ウェールズ」を、2018年に退役する揚陸ヘリ空母「オーシャン」の代替艦ともすることで、さらに6億ポンドの削減になると見積もられている。同時に本艦の搭載機がSTOVL機のF-35BからCTOL型のF-35Cに変更された。これに合わせて発艦方法がスキージャンプ方式から電磁式航空機発艦システム(EMALS,電磁式カタパルト)に変更され、対応する改修が行われた後2019年にCTOL空母として就役することになっていた。 2010年11月25日には、英『ガーディアン』電子版が、「プリンス・オブ・ウェールズ」がインド海軍に売却される可能性があると報じたがこれは実現していない。   (2019/7/26 18:00:48)

マックス2012年5月10日、F-35Cの実戦配備もまた2023年まで遅れる見込みのため、イギリス政府は本艦艦載機を再度F-35Bへ変更すると発表した。またフィリップ・ハモンド国防大臣はSTOVL型のF-35Bに変更されることにより、CTOL機向けの電磁式カタパルトやアレスティング・ワイヤーを装備しないことを示唆している。 2015年の戦略防衛・安全保障見直し2015では2隻ともが人員を充足されイギリス海軍に就役し、常時最低一隻を運用可能とする方針が示された。 2017年9月8日に進水式が行われ、12月21日に建造ドッグより出渠した。現段階では2019年に試験航海、2020年に就役予定であり、 その後2023年頃にSTOVL空母としての運用能力を持つ予定である。   (2019/7/26 18:01:29)

おしらせマックスさんが退室しました。  (2019/7/26 18:01:41)

おしらせ結紐さんが入室しました♪  (2019/7/27 10:23:24)

結紐Adele・Vioret(アディール・ヴァイオレット)【性別:女】【年齢:15】【身長:164cm】【容姿:紫色をしたストレートの細い髪をお団子にして三つ編みでくるっと巻いている。たれ目で蒼く透き通った瞳を持っている。童顔で、白く人形のような顔の造形をしている。華奢で、半袖の白いふわふわの膝丈ワンピースを着て、サーモンピンクの長袖カーディガンを着ている。レースの靴下と白いミュールをはいている。】【性格:シトラスをお姉さまと慕う少女。シトラスを友愛として愛している。シトラスとはこの前会ったばかりだが。基本的に優しく、社交的である。たまに腹黒い。】   (2019/7/27 10:46:49)

おしらせ結紐さんが退室しました。  (2019/7/27 10:47:28)

おしらせマックスさんが入室しました♪  (2019/7/27 19:51:52)

マックスクイーン・メリー (客船) 女 145cm マカロンが大好きな、一見すると普通の女の子だが、その実かなりのメンヘラ。対象によってはヤンデレにもなりうる。女王ではなく王妃の方。マカロンに人をかけたりして詞を作ったりしているが、中々意味不明である。中にはカニバとも見受けられる詞もあったりする。誰かに依存しやすく、振り向いて貰おうと無理をする。身長こそ小さく外見は幼女だが一応中学生の年齢。不安定で感情の起伏も激しいため、急に怒りだすことも。   (2019/7/27 19:57:27)

マックス    (2019/7/27 19:57:53)

マックスクイーン・メリー(RMS Queen Mary)は、キュナード・ラインが所有していたオーシャン・ライナーである。キュナード・ラインがサウサンプトン - シェルブール - ニューヨークを毎週行き来できるように計画した2隻のうちの1隻であり、建造はスコットランドのクライドバンクに位置するジョン・ブラウン・アンド・カンパニーであった。   (2019/7/27 19:57:57)

マックス本船は1936年から1967年にかけて北大西洋を横断する定期便として運航された。1920年代後半から1930年代前半にかけて、ヨーロッパは巨大で優秀な船舶を必要としていたため、同時期に建造されたクイーン・エリザベスと共にチャーターされ、客船として運航されたが、第二次世界大戦の勃発に伴い兵士輸送船として軍に徴用された。軍を退役した後は再び客船として20年間運航され、1967年に引退。国立登録史跡として登録され、ロングビーチで博物館船兼ホテルとして静態保存されている。   (2019/7/27 19:58:08)

マックス    (2019/7/27 19:58:25)

マックスヨーロッパでは客船の建造競争があり、ドイツはすでに客船「ブレーメン」と「オイローパ」を建造していた。キュナード・ラインのライバルのホワイト・スター・ラインは総トン数60,000トンの「オーシャニック」の建造を決定し、競争に遅れをとっていたイギリスは、総トン数75,000トンの客船を建造することを決定したが、船名は未定であった。 534番船体と仮の名が付けられていた本船の命名については極秘のうちに進められ、キュナード・ラインの船名の命名規則に従い「ヴィクトリア」(Victoria)に内定していた。この裁可のため社長代理がジョージ5世に謁見した際に「この新客船には“イギリスの偉大な女王(クイーン)”の名を冠します」と遠まわしに奏上したところ、ジョージ5世の王妃(クイーン)メアリー・オブ・テックと勘違いされ「そうか。ありがとう」と言われたことに起因する。   (2019/7/27 19:58:28)

マックス1930年12月にクライドバンクにあるジョン・ブラウン・アンド・カンパニーで建造が始まったが、1931年12月に世界恐慌による資金不足により工事が中止された。キュナード・ラインは534番船体を完成させるための建造資金補助を政府に依頼し、政府は経営不振に陥っていたホワイト・スター・ラインとの合併を条件に552番船体「クイーン・エリザベス」の分も援助することを承認し、両社は1934年4月に合併することで合意した。合併した際、社名がキュナード・ホワイト・スター・ラインとなった。こうして約3年半中断されていた工事が再開され、クイーン・メリーは1934年9月26日に進水した。建造にかかったコストは350万UKポンド、工期は3年半となった。   (2019/7/27 19:58:41)

マックス    (2019/7/27 19:58:42)

マックス1934年9月26日、534番船の進水式は雨降りのなかメアリ王妃が長い答辞の途中突然船台上から滑り出し進水を始め、慌てて船名「R.M.S.クイーン・メリー」を授けて祝福し降りた水上では勢いが付きすぎて危うく浅瀬に乗り上げる直前で停止するという事故が起きた。 クイーン・メリーの建造後、クライド汽船の所有する船舶に同名の「クイーン・メリー(Queen Mary)」が存在することが判明し、キュナード・ホワイト・スター・ラインと協議した結果、クライド汽船の「クイーン・メリー」を、「TS Queen Mary II」と改名することに決定した。 処女航海は1936年5月27日、クイーン・メリーはエドガー・T・ブリテン船長の下、サウサンプトンを出港した。クイーン・メリーの総トン数は80,774トンあり、ライバルのノルマンディーの総トン数79,280トンを上回っていたが、ノルマンディーが改装され、ゲームセンターを増設したことにより83,243トンに増え、クイーン・メリーを抜かした。クイーン・メリーは高速で航行していたが、ニューヨークに到着する直前に霧が出てきたため、速度を落として航行した。   (2019/7/27 19:59:09)

マックスノルマンディーの流線型で革新的な船体に対し、クイーン・メリーのデザインは伝統的すぎると批判された(実際、クイーン・メリーの外観は第一次世界大戦前の客船と大差なかった)。さらにクイーン・メリーは内装にアール・デコを使用しており、フランスの定期船よりも古めかしくて落ち着いた雰囲気にまとまっていた。船体の大きさでもノルマンディーが上回っていたが、このような批判を受けたにもかかわらず、就航後クイーン・メリーは乗客定員の多さと持ち前の快速ぶりで大人気となった。 1936年8月、クイーン・メリーは西回り航路で平均速力30.14ノット(55.82km/h)、東回り航路で平均速力30.63ノットを記録しノルマンディーからブルーリボン賞を奪った。その後ノルマンディーは改装で新型の動力機関を取り付けたため、1937年クイーン・メリーからブルーリボン賞を奪い返したが、1938年に再びクイーン・メリーが西回り航路で平均速力30.99ノット(57.39km/h)、東回り航路で平均速力31.69ノットを記録しブルーリボン賞を受賞した。その後、この記録は1952年にユナイテッド・ステーツが登場するまで続いた。   (2019/7/27 19:59:25)

マックス内装   (2019/7/27 19:59:28)

マックスクイーン・メリーの1等船客の設備は極めて豪華であった。特に有名だったのは室内プール、バー、図書館や児童センター、犬小屋まであった。特に広大であった1等船客の食堂(グランド・サロンと呼ばれた)は、2デッキ分の高さがあった。また、先述した室内プールも、同様に2デッキ分の高さがあった。 食堂には大西洋横断時の西回り航路と東回り航路が描かれた地図が設置されており、この地図には船の現在地を示す動力つきの模型が付いていた。姉妹船クイーン・エリザベスが就航した際には模型が1つ追加され、乗客は両船の位置を知ることができた。   (2019/7/27 19:59:42)

マックス広大な食堂で食事をする以外にも、屋上にはバーベキューとフランス料理レストランが設置されており、レストランの定員は80人であった。また、このレストランはクラブとしても使えるように作られていた。他にも大西洋の景観を楽しめるアール・デコ様式のロビーなどが存在した。 内装に使用されていた木材は個室と公共施設で異なり、また、等級によって内装が異なっていた。   (2019/7/27 19:59:55)

マックス第二次世界対戦   (2019/7/27 20:00:01)

マックス漢字間違い、第二次世界大戦   (2019/7/27 20:00:26)

マックス徴用   (2019/7/27 20:00:34)

マックスその後、1939年8月にクイーン・メリーはニューヨークからサウサンプトンへ引き返したが、ヨーロッパの情勢が悪化していたため巡洋戦艦フッドの護衛を受けることとなった。無事にサウサンプトンに到着したクイーン・メリーは再び同年9月1日にニューヨークへ向けて出港したが、ニューヨークに到着した際に第二次世界大戦が勃発。ドイツ海軍の潜水艦による攻撃を避けるために、クイーン・メリーはノルマンディーと共にニューヨーク港に引き留められた。 その後、クイーン・エリザベスと合流した3隻は、秘密裏にクライドバンクまで移動させられ、協議の結果、イギリス海軍の上層部は2隻を軍隊輸送船として徴用することを決めた(なおその後本国がドイツの占領下におかれたノルマンディーは、アメリカ海軍に徴用されて改装中に火災が発生し、消火の際の放水によって転覆した。)   (2019/7/27 20:01:15)

マックス輸送船   (2019/7/27 20:01:29)

マックスクイーン・メリーはニューヨークからまだ戦火に見舞われていなかったオーストラリアのシドニーへ移動し、ドイツ海軍艦船から攻撃を避けるべく様々な航路を通ってオーストラリアやニュージーランドの兵士をイギリスに運んでいた。クイーン・メリーは姉妹船クイーン・エリザベスと共に兵士及び食料などの輸送船として戦争に従事し、1度の航海で護衛も無しに15,000人の兵士を運ぶことが可能であった。戦争期間中、クイーン・メリーはクイーン・エリザベスと共に視認されにくい灰色の塗装を施されたため、2隻とも“灰色の幽霊”というあだ名をつけられた。 クイーン・メリーは高速であったため、この時代のドイツ海軍のUボートでクイーン・メリーに追いつくのは実質的に不可能であった。一度のみ、ドイツがクイーン・メリーの停泊中にUボートで待ち伏せする作戦を実行したものの、クイーン・メリーがUボートに関する警告を受けていたためコースを変更し、作戦は失敗に終わった。   (2019/7/27 20:01:47)

マックスなお1941年12月に日本がイギリスとオーストラリア、ニュージーランド、アメリカの間で開戦し、その後イギリス軍やアメリカ軍はアジア太平洋地域とインド洋地域で日本軍に相次いで敗北した。このため連合国軍はインド洋全域の制海権を喪失したのみならず、シンガポールを含むマレー半島や香港などのアジアにおける植民地を喪失した上に、オーストラリアも日本軍の攻撃を頻繁に受けるようになった。これを受けてクイーン・メリーは、1942年以後はアメリカとヨーロッパの間の北大西洋のみで運航された。 1942年10月2日、アイリッシュ海でクイーン・メリーは護衛の軽巡洋艦キュラソーと衝突し、キュラソーは二つに引き裂かれて沈没した。Uボートによる攻撃の危険があるため何があろうともクイーン・メリーは停船することは禁じられており、駆逐艦に救助を任せてその場を離れた。この事故でキュラソーの乗員338名が死亡した。   (2019/7/27 20:02:15)

マックス1942年12月、クイーン・メリーは合計で16,082人の兵士をニューヨークからイギリスへ輸送中であった。その時、スコットランド沖700マイルで強風によって発生した高さ28mの異常波浪に襲われ、危うく転覆する寸前にまで達した。後にこの事故がもとになって、小説「ポセイドン・アドベンチャー」が執筆された。 1945年5月にドイツが降伏したことでヨーロッパにおける大戦が終結した。これを受けてクイーン・メリーは、それまでヨーロッパ戦線およびアフリカ戦線で戦っていたアメリカ軍およびカナダ軍の兵士の帰還業務に従事することとなった。   (2019/7/27 20:02:27)

マックス第二次世界大戦後   (2019/7/27 20:02:35)

マックス1946年にはイギリス海軍からの徴用を解かれ、同年9月から1947年7月まで、クイーン・メリーは客船復帰のために改装され、船室の数が増えてファーストクラス711室、一般客室707室、観光客専用客室577室となった。 こうしてクイーン・メリーは、クイーン・エリザベスと共に再び大西洋横断定期船として1940年代から1950年代にかけて運航された。 しかしこの頃、ダグラス DC-6やロッキード コンステレーションなどの大型旅客機が大西洋横断路線に就航し、さらに1958年には、大型ジェット旅客機のボーイング707が就航しロンドン-ニューヨーク間を6時間程度で結ぶとともに、運賃も低下したことにより、クイーン・メリーをはじめとする大西洋横断定期船の乗客は急激に減ることになった。   (2019/7/27 20:02:51)

マックスさらに1969年のクイーン・エリザベス2の就航によりクイーン・メリーへの関心が薄れ、老朽化によって新市場での競争は難しいとして、キュナード・ラインはクイーン・メリーを売却することを発表した。 多数の買収の申し出があったが、結局ロングビーチで保存されることとなった。こうしてクイーン・メリーは1967年に引退、クイーン・エリザベスも1968年に引退した。1969年にクイーン・エリザベス2が就航し、2004年にクイーン・メリー2が就航した。   (2019/7/27 20:03:04)

マックスロング・ビーチでのクイーン・メリー   (2019/7/27 20:03:16)

マックス引退後の1967年、クイーン・メリーはアメリカ西海岸のロングビーチで係留され、静態保存されることが決定した。1972年公開の映画「ポセイドン・アドベンチャー」の撮影に使用された。 1983年から1993年にかけては付近のドーム型の建造物にH-4が展示されていた(このドームは元々ホールとして使用されていたものであり、現在はカーニバルクルーズラインがターミナルとして使用している)。 2015年現在はホテル及びレストラン、会議場などとして運営されており、またロングビーチ港のランドマークとしても市民に親しまれている。   (2019/7/27 20:03:27)

マックス    (2019/7/27 20:03:32)

マックスクイーン・メリー「わたし、クイーン…“クイーン・エリザベス”って言うの。決して“王妃”じゃないわ。」「マカロン、作りたいの?ふふ…貴方、わたしと似てる…」「わたしは“クイーン・メリー”じゃないッッ!!!わたしから“エリザベス”の名を奪ったニセモノッッッ!!!」「やめろやめろ!!!その名前で呼ぶな!!わたしはっ、わたしは“王妃”なんかじゃないッッ!!!」「貴方もワタシを“メリー”と呼ぶの…?わたしは、エリザベスなのよ」   (2019/7/27 20:08:48)

マックスこれ、やばい方向で病んでるんじゃ…(   (2019/7/27 20:09:05)

おしらせマックスさんが退室しました。  (2019/7/27 20:09:12)

おしらせマックスさんが入室しました♪  (2019/7/31 16:16:31)

マックスクイーン・メリーの姉妹船ですっ   (2019/7/31 16:16:47)

マックス    (2019/7/31 16:16:49)

マックスクイーン・エリザベス (客船) 女 145cm  王妃、クイーン・メリーの双子の妹。外見こそそっくりだが中身は正反対。気弱で貧弱。心臓の持病を持っており、時々咳き込んでしまう時がある。自身をクイーン・エリザベスと思い込んでいるメリーが怖い。そのため、あまり姉の話はしない。関係性は不明だが、仲が良いというわけではなさそう。姉と似て“王妃”と言われるのが嫌い。被害妄想が激しく、時々現実との区別がつかなくなる時がある。依存できる相手が欲しいみたいだが、それは自分を安心させるための存在感があった方がいいという考えからである。または……。   (2019/7/31 16:23:28)

マックス1930年代にジョン・ブラウン・アンド・カンパニー造船所で建造され、当時のイギリス王妃エリザベス(ジョージ6世の妃)にちなんで命名された。第二次世界大戦に伴い徴用船として最初の航海を行い、戦後に北大西洋横断航路に就航して1968年まで運航された。 ロイヤルメールを運ぶ契約を結んだ船で(Royal Mail Ship)、RMSを冠する。   (2019/7/31 16:23:48)

マックス就航   (2019/7/31 16:23:55)

マックス1930年代にスコットランドのクライドバンクのジョン・ブラウン・アンド・カンパニー造船所で建造され、イギリス王妃エリザベス(ジョージ6世の妃)にちなんで命名された。1938年9月27日に進水した後に徴用され、1940年3月3日に就航した。当時は世界最大の客船であった。   (2019/7/31 16:24:08)

マックス徴用船   (2019/7/31 16:24:17)

マックス1939年9月に勃発した第二次世界大戦中、「クイーン・エリザベス」と「クイーン・メリー」はイギリス海軍に徴用されてカナダやオーストラリアなどのイギリス連邦諸国やシンガポールなどの植民地へ兵員を輸送した。高速性を活用することで、護送船団なしでも潜水艦の脅威を回避した。大戦中の輸送人員は75万人以上、航海距離は50万マイル(90万キロメートル余り)にも及んだ。船長はジョン・タウンリー(John Townley)、アーネスト・フォール(Ernest Fall)、C・ゴードン・イリンズワース(C. Gordon Illinsworth)、C・M・フォード(C. M. Ford)とジェイムズ・ビゼット(James Bisset)が務めた。   (2019/7/31 16:24:46)

マックスクイーン・エリザベスは当初、まだ戦火に覆われていないオーストラリアからイギリスの植民地が点在するアジアとアフリカの間で運航されたものの、1941年12月の日本とイギリス、オーストラリアの間の開戦と、その後の日本軍に対する敗北とそれに伴うインド洋全域の制海権喪失、シンガポールを含むマレー半島や香港などのアジアにおける植民地の喪失を受けて、1942年以後はアメリカとヨーロッパの間の北大西洋のみで運航された。   (2019/7/31 16:24:58)

マックス航路客船   (2019/7/31 16:25:08)

マックス1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴い、軍役から戻ったクイーン・エリザベスは、ジョン・ブラウン(John Brown)造船所で内外装を大幅に改修され、ようやく旅客船として北大西洋航路に投入された。「クイーン・エリザベス」は「クイーン・メリー」とともに、サウサンプトンからシェルブールを経由しニューヨークまでの路線を、20年以上にわたって運航された。 しかし1950年代に入ると、ダグラス DC-6やロッキード コンステレーションなどの大型旅客機が大西洋横断路線に就航した。さらに1958年には、大型ジェット旅客機のボーイング707が就航し、ロンドン - ニューヨーク間を6時間程度で結ぶとともに、運賃も低下した。1960年代に入ると、「クイーン・エリザベス」をはじめとする北大西洋航路定期船の乗客は急激に減り、採算性は低下した。   (2019/7/31 16:25:28)

2019年07月19日 14時14分 ~ 2019年07月31日 16時25分 の過去ログ
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